『かなり』

干支に入れてよ猫

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平成を振り返るとき

どうも、坂津です。

今週のお題「平成を振り返る」

アイキャッチ画像は振り返る構図の過去絵を並べただけなので記事には関係無い。

 

平成という時代で最も特筆すべきは、やはりインターネットの普及による情報環境の激変だろうと思う。

個人間でのやりとりも、家の固定電話からポケベルへ、そしてPHS、携帯電話と変遷し、今では通話でもメールでもない方法(LINEやSNS各種など)で繋がっている。

それまで実体験以外の情報源は、書籍、テレビ、ラジオ、新聞がすべてだったのに対し、現在は各種WEBサイトの情報やメルマガ、ニュースアプリなどが優勢となっている。

また情報の種類も莫大に増え、発信速度、伝達速度も格段に上がっている。

3年前に、こんな記事を書いた。

大雑把に説明すれば『身体は日々の食事で摂取したモノで構成され、心(精神、考え方、価値観)は日々得られる情報で構成される』という内容。

これといって特別なことを言っているわけではない。

素行の悪い人を見れば『どういう教育を受けて来たのか』とか『親の顔が見たい』などという表現が飛び出してくるが、これはその人物を作り上げたのがそれまで得てきた情報であるという考えに裏打ちされていることは疑いようもない。

誰しもが普通にこのことを信じているし、事実である。

 

さて、それでは本題に戻ろう。

平成という時代が情報環境の激変時代であるということは、つまりその時を生きる人々の心(精神、考え方、価値観)が形作られる環境も激変しているということだ。

情報そのものにしても、形態にしても、インターフェースにしても、加速度的に変化していったのが平成である。

単純に情報の量も激増しているが、質についても実に多様となった。

浅い情報、深い情報、借り物情報、真実の情報、偽物の情報など、その情報について受け手側に高度なフィルタリングが求められるようになっている。

つまり、旧時代のような『周囲の人間と自分が得ている情報の同一性が高い』という環境から一変、平成の世は『個人ごとに摂取している情報の内容、性質、ルート、量の格差が大きい』という環境になったということだ。

 

要するに『心の個体差が激しくなった時代』ということである。

 

現代、個性を重要視し多様性を認知することが求められる風潮となっているが、これは別に『これまで抑圧されてきた各人の個性が見直されてきている』のでは無い。

いままで以上に『個性が育まれる環境』になっていて『膨れ上がった個性を抑え込めなくなっている』だけなのだ。

平成という時代が生み出した心の個体差に、これまでの価値観が通用しなくなっているに過ぎない。

これまで築き上げてきた旧式の社会の仕組みにとって、止め処なく強度を増す個性は毒となる。

まさに身から出た錆とでも言おうか、平成が育んだ強烈な個性たちが平成の社会を殺すのだ。

 

要するに、個性、多様性を内包したまま機能的に社会が回るようになるには、平成の30年だけでは足りなかったということだ。

個人の変化に対応できる社会の構築は、来週から始まる令和へ投げられた。

仮に30年後の令和30年、私が幸運にもまだ存命だったとして、平成をどのように振り返るだろうか。

 

願わくば『平成とは、昭和から令和への過渡期であった』と思えるような社会を望む。