『かなり』

干支に入れてよ猫

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平成の意味

どうも、坂津です。

再来週はもう令和ですね。

いよいよ平成も大詰めを迎えてきました。

残り2週間しかない平成、果たして元号に込められた『平和が達成される』という願いは叶っているのでしょうか。

記憶に新しい直近の平成30年は過去に例を見ないほど災害の多い年でしたし、思い起こされる出来事には平和を感じるものが少ないように思います。

ただ、それは限られたソースによって構築された世界であり、他者の意図によって編纂へんさんされた情報による現実的非現実です。

 

現実的非現実って何だ?と思われた方、私の造語ですのでご安心を。

 

例えば友人から「新発売のハイボールが美味しかった」という話を聞いた場合、新発売のハイボールが存在するという事実と、それを友人が購入して飲んだという事実に、美味しかったという感想がブレンドされた情報です。

ここに私の過去の経験や言語理解力、想像力などが加わって意思の疎通がなされ、私の中に友人から得た情報で組み上げた『仮想現実』が誕生します。

しかしそこに私の実体験は存在せず、あくまでも伝聞による情報に過ぎません。

これが現実的非現実。

ただの非現実ではなく、実体験に近しい現実感を伴った仮想現実のことです。

 

先の例で言えば、私は友人から聞いた情報だけで『新発売のハイボールが美味しい』という事実があると思い込んでしまいます。

そこには価格やパッケージ、購入できる店などの情報は皆無です。

また、そのハイボールを飲んだ状況、合わせて食べたおつまみなどの情報もありません。

それら、自分で経験していたならば欠けることの無かった情報が欠落した状態でも、私たちはある程度の現実感を持ったまま事実認定してしまうことがよくあります。

 

テレビやネットから得た情報だけで世界を構築するとき、注意が必要です。

もちろんそれが必要なシーンもたくさんあります。

ですがそこで組み上げられた現実的非現実を信用し過ぎたり頼り過ぎたりすると、手痛い目に遭うこともよくあります。

なるべくならば、伝聞による情報で構築する世界は輪郭ぐらいに留めておいて、色付けするのは自分自身の実体験に基づく方が良いと思います。

 

さて、こういう思考の果てに辿り着くのはもちろん『伝聞による平成』ではなく、私自身の経験と体験による『生々しい平成』の振り返りなのであります。

 

現在40歳の私は生後10年を昭和、その後の30年を平成によって育まれました。

私を構成する実に75%は平成という時代なのです。

その75%が平和であったかどうか、果たして私に平和が達成されているかどうか。

年表的な思考で私史を振り返れば様々な事変がありましたが、結果的に見れば今の私はとても平和的なおじさんです。

争いを好まず対立を善しとせず和解を尊び共存を最上とする人間です。

それはつまり、坂津という個人の範疇で言えば平成は平和を達成したよ、と言えるのではないかということです。

 

かつての私は『らな胸を気にする人女性こそ宝』と豪語していました。

この性癖を私に植え付けたのは昭和の産物です。

しかし、平成という時代はそんな私の偏った価値観を見事に変えてくれました。

『助が喜ぶたわわな胸に長した女性』も、受け入れられるようになったのです。

 

貧乳vs巨乳という無益な争いに終止符を打ち、すべてのおっぱいを等しく愛することが出来るようになった私は完全に平成ですよね。

ありがとう、ありがとう平成。