『かなり』

干支に入れてよ猫

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ハッピーウェンズデー

どうも、坂津です。

1998年から始まったハッピーマンデー制度。

祝日を月曜日に移動させて土日祝で3連休を作ろうという趣旨で、実際に祝日の移動が行われたのは2000年からでしたっけね。

開始の頃に生まれた赤ちゃんが成人するほど時間が経過していますので、もうすっかり浸透していることと思います。

ていうか、敬老の日とか成人の日が実は日付が固定だったことを知らない人達も多いのではないかと。

制度が告知され開始されたときには素直に「わーい3連休が増えるぞ~」と喜んだものですが、最近になって「週中に休みがある方が良いんですが」と思うようになってきました。

飛び石になるのは嫌だという方もいらっしゃるでしょうが、逆に考えれば有給休暇の使いどころとしても狙い目なのかと。

2019年から有休消化の義務化も始まっていることですし、ねぇ。

なので、そろそろハッピーマンデー制度を見直して、ハッピーウェンズデーに切り替えてはいかがでしょうか?

日本の祝日は16日あって、天皇誕生日だけは日付を変更することができないので、それ以外の15種類について、全部水曜日にしませんか?

え? 元旦も水曜日にするのかって?

そうですよ。

例えば2021年の元旦は金曜で、直近の水曜日は1月6日でした。

なので1月6日を元旦相当の祝日にしちゃうのです。

こうやって1週間のうちの出勤を2日と3日に分断することによって従業員の英気が養われ、また有給休暇の取得もしやすくなるという一石二鳥。

ね。

ここはひとつ、祝日を水曜に移動させましょうよ。

 

作者と読者の関係について

どうも、坂津です。

とある情報についての真偽や物事の正誤というものは、視点を変えたり状況が変わったりすることで容易く変化します。

その昔、世界は平らで、端が存在すると思われていました。

しかし地球はまるく、どこにも端など無かったのです。

電流はプラスからマイナスに流れていると思われていたし、隕石が燃え尽きるのは大気との摩擦熱だと思われていました。

しかし現在では、電流はマイナスからプラスへ流れ、隕石は空気の圧縮熱で燃えるというのが常識です。

でも、この常識と呼ばれる知識だって、何らかの新発見によってあっさりと塗り替えられる可能性はゼロではありません。

真偽や正誤とは、実に脆く儚く頼りないものなのです。

ただ『現状としてはこれが真』『諸説あるけど今はこれが正』という、いわば『仮の正解』というものは存在します。

それはあくまでも『仮』ですから、不用意にぶつけたり振りかざしたりしてはいけないのです。

言語についても、それは同様です。

『正しい日本語』『正解の表現』というものは存在しますが、それは一過性の正しさであり、時代の流れとともに新陳代謝するのが、言葉の魅力でもあります。

そもそも言葉というのは他者へ意味や意図を伝達するためのツールなので、仮に間違った表現をしていようとも、ニュアンスや雰囲気が伝わればそれで役割を果たしていると言えます。

 

例えば。

宇宙空間へ放り出された彼は鉱物と生物の中間の生命体となり死を逃れた。

だが自力で地球に帰還することはできず、かと言って死ぬこともできない。

これから先ずっと、何万年、何億年、何光年、宇宙を漂うことになるのだ。

このような圧倒的かつ絶対的な未来予測に、精神は耐えることができない。

そこで彼は知性を封印し、考える事をやめるという手段で防衛を果たした。

 

上記の文章には誤った表現があり、違和感を覚える方もいらっしゃると思います。

それは『何万年、何億年、何光年』のところ。

万年、億年というのが時間の長さを表現しているのに対し、光年というのは距離を表す単位です。

分かりやすく言い換えれば『10秒、30分、20km』と並べているようなものです。

しかし、これを単純な誤りとするのではなく、筆者が意図的にこう書いたのかも知れないと読むことも可能です。

上の文章では宇宙を漂うという表現なので、当然ながら件の彼は移動していることになります。

その距離のことを言っているのであれば、間違いにはなりません。

 

例えば。

彼は休憩も取らず歩き続けた。

24時間、365日、2,000km、とにかく歩いた。

 

これなら多少の違和感はあっても間違いではないでしょう。

 

 

で、ここからが本題。

 

日々様々な情報に触れることができる現代、多くの表現を目にする機会に恵まれています。

そんな中で「あれ?この表現ってもしかして間違ってるかも?」と思うものに遭遇することも決して稀ではありません。

しかし大抵の場合「まぁ意味は分かるし、別に良いけど」となるものです。

もちろん説明書や契約書など、情報の性質によっては解釈に幅があってはいけないこともありますが、そうでないものについては、ざっくりと趣旨が理解できれば問題はありません。

特に娯楽や嗜好を満たすための漫画や小説などの創作物は、厳密に正しい表現を求めると逆に世界観や雰囲気を壊してしまうことも大いにあり得ます。

作者が意図的に、敢えて、ワザと、技法として、間違い(とされている)表現を使用することも多々あるのです。

それらの情報を受け取る側の私たちは常に「この表現に隠された作者の意図は何だろう」という分析を行い、作品を深く味わう楽しみを得ることができるのです。

 

しかし、これは間違い(とされている)表現を『作者が恣意的に』使用している前提での思考です。

もし仮に作者が正解(とされている)表現を知らず、誤った(とされている)表現を正しいと思って使っているとしたら?

その事実はもちろん、情報を受け取る側である私たちの知るところではありませんし、本来ならそこも含めて作品を楽しむことしか私たちには許されていません。

創作者と読者の間には越えることのできない隔絶があるのです。

しかし、SNSというツールがこの隔たりを一瞬にして埋め、創作者をまるで隣人のごとく錯覚させるに至っている現状があります。

 

創作者から生み出され世に出た作品は作者の手を離れ、読者によって様々な解釈を与えられて無数の正解を生み出します。

ですが現在、読者は圧倒的な気軽さで創作者に対し「この部分はどういう意図でこの表現に?」などと作者に声を掛けることができてしまうのです。

これは作品を咀嚼することの放棄、反芻することの拒絶にも繋がりかねない危険な行為であり、クイズで出題者に解答を尋ねるのにも似た残念な行為です。

また「もっとこういう展開の方が好みです」というような投げ掛けも散見されますが、これはレストランで出された料理に「もっと塩を利かせた方が美味しいですよ」と言っているようなもの。

そして、「この表現は間違っています」という指摘。

これもまた、SNS上でたびたび目にすることがあります。

この指摘は二種類に大別されます。

『だから正しく直すべき』という主張と『という情報もありますがご存知ですか?』という情報提供。

前者の主張は、読者が既出の作品に介入するという禁断の大罪であり、創作者の意図を越えて読者が作品を改変できるという奢った認識の表れです。

非常識な越権行為であり、世の摂理を逸脱した許されざる行為です。

『間違いを正すのは正義』という行動原理での行いなのでしょうが、その考えを担保している『正しさ』というものは、本文の冒頭で述べたように絶対的なものではないのです。

しかし、後者のような情報提供を受け、創作者が自身の手によって作品に修正、訂正を加えることには何の不自然さもありません。

創作者は『情報によって作品を改変する権利』も『情報を得た上で敢えて手を加えない権利』も持っているのです。

これを決めるのは読者ではなく作者。

もしくは作者側に類する組織(例えば出版社とか版元とか)の権限を持った存在だけなのです。

 

現在では読者参加型の創作物や、SNSなどの反応によって展開が変わる物語なども多く存在しています。

それらに対して自分の希望、願望をぶつけるのは、ルールの範囲内であれば何の問題もありません。

ですが既にリリースされた作品に対し、感想や情報提供以上の過干渉は、決して許されるものではないのです。

遺伝って怖い

どうも、坂津です。

息子がペットボトルのキャップをきれいに整列させるのが大好きな件。

過去に何度か記事にしました。

スーパーに買い物に行ったときなんかも、陳列されているペットボトル飲料を見て「あやたか!」「いろはす!」「らいふがーど!」「じょーじあ!」と点呼を始めるほど。

 

私「いやはやまったく、誰に似たのか」

妻「は?ちょ、それマジで言ってる?」

私「えぇ?何か心当たりでもあるの?」

妻「旦那もミュズレ集めてるじゃん!」

私「ミュズレとキャップは違うでしょ」

ja.wikipedia.org

妻「ほう。これでも違うと言い張る?」f:id:sakatsu_kana:20210214115454j:image

 

私「なに一つ相違ございませんでした」

妻「確実に旦那のDNAということで」

私「はい。一目瞭然にございますです」

 

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