どうも、坂津です。
お酒の付き合い、いわゆる『飲みニケーション』などと呼ばれるやつですが、最近の若者は好きじゃない人が多いみたいですね。
かく言う私も、今でこそ毎日晩酌するほどお酒が好きになりましたが、若い頃は全然でした。
むしろアルコールの力を借りなければコミュニケーションを取れないオッサン達を蔑んだものです。
その考え方はお酒大好きな今も変わらず、なので無理やり飲み会に誘ったりする奴は許せないのです。
上司「このあと一杯やってくか!」
坂津「一杯じゃ済まないくせに~」
上司「だはは!そうなんだよな~」
坂津「良いですよ、行きましょう」
上司「よし、君はどうするかね?」
部下「いやぁ、今日はちょっと…」
上司「君は毎回それじゃないか!」
部下「自分お酒飲めないんですよ」
上司「それ人生の半分損してるぞ」
坂津「まぁ、良いじゃないですか」
上司「坂津。お前が甘やかすから」
坂津「お説教はお店で聞きますよ」
上司「そうか?じゃあレッツゴー」
坂津「これお店のリストですけど」
上司「仕事早いな!えぇーっと…」
坂津「今のうちに帰っちゃいなね」
部下「はい、お疲れ様さまでした」
食べ物の好き嫌いに対して『人生の半分損してる』という表現によく遭遇します。
そしてそれがお酒である率は割りと高めです。
しかし、私はこの表現を本気で言っている人があまり好きではありません。
私も冗談で『え?巨乳好きなの?嘘、マジで?いやいや、貧乳は良いよ貧乳は。貧乳の良さが分からないなんて、人生の半分損してるよ?』とかは言いますが、あくまでも冗談です。
だって人生における損得なんてあくまでも当人の主観、価値観によるものです。
つまりお酒が飲めないことで人生の半分が損になるという主張は『過去の経験を振り返ったとき50%は酩酊状態でありそれが楽しかった』という告白に他なりません。
なんかむしろそっちの方が悲しくないかい?
自らの経験に準拠して構築されたモノサシを他人の人生に強引に当てはめてはいけません。
その人にはその人の経験があり価値観がありモノサシがあるのです。
それを無視することは、相手の人格を無視することに等しいと、私は思います。
上司「もう一軒だけ行こう!な!」
坂津「結構酔ってますが大丈夫?」
上司「こんなの酔ったとは言わん」
坂津「ま、付き合います何軒でも」
そう考えると、私は割りと広く浅い価値観を持っています。
つまり多様性を容認できるというわけです。
お酒が好きな人の意見も分かるし、飲めない人の主張も理解できます。
喫煙者と非喫煙者の両サイドに立つこともできます。
パン派とご飯派、どちらにでも賛同できます。
目玉焼きには塩コショウでもソースでも醤油でもマヨネーズでも問題ありません。
ゆで卵が半熟だろうが堅茹でだろうが許容範囲内です。
これがまさに『特をしてる人生』なんじゃないかと思います。
だからね、誰かに向かって「人生の半分損してる」とか言う人は、その考え方で「人生の半分以上を損してる」と思いますよ。