『かなり』

干支に入れてよ猫

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他人から言われること

どうも、坂津です。

私たちは『自分が満足したい』という欲求と『他者から評価されたい』という欲求、この2つを動機に行動します。

最良なのは、自分の行いによって生じた結果が、他者から高い評価を受け、尚且つ自身でも満足できるという状態でしょう。

 

しかし、往々にしてそう上手くはいかないものです。

 

他者からの評価が高くても、自分自身が納得できないということもあるでしょう。

オリンピック選手がメダルを辞退したり、陶芸家が皿を割ったりするようなケースです。

また逆に、他者からの評価はイマイチでも、自分自身が満足していれば良い場合もあります。

 

『他者評価』と『自己満足』のどちらに重きを置くか、それに答えはありません。

正解も常識も王道も通念もありません。

これは個人の価値観でしか決められないものなのです。

 

他者評価にこそ価値を感じる人からすれば「例え自分が満足できたとしても、そこに他者からの評価が伴わなきゃ何の意味も無い」と考えるでしょう。

逆に、自己満足に価値を置く人は「どれだけ他者から賞賛されても、自分が満足できなければ虚しいだけ」と考えると思います。

恐らく大多数の人は、この両方の意見がどちらも理解でき、上手くバランスを取るようにしているのではないでしょうか。

自分が成したことに対して他者から思いがけない高評価を受けたとき、自分ではそこまで満足していなかったとしても、その評価を受け入れるケースもあるでしょう。

反対に、自分では完璧だと思って大満足していたものの価値が他者に認めてもらえず、しかし自身の満足度の高さをもって良しとする場面も多くあると思います。

これは私たち人間が『個』という特性を捨てきれないまま『社会』の中で生きている以上、避けようの無い現象です。

 

さて、しかしこの『他者評価』と『自己満足』の個人的価値観を、他者批判に用いているケースをしばしば見かけます。

 

周囲から高評価を受けている人が、自身では満足できていないという趣旨の発言をしていることに対し「評価されてるんだから贅沢言うなよ」みたいなことを言ってみたり。

自分に大満足している人に対して「周囲に認められてから満足しろよ」なんてことを言ってみたり。

 

正直なところ『それはアンタの価値観であって、当人の基準とズレてるよ?』と思えて仕方ありません。

単に感想として述べているだけなら問題ないのですが、どうにもズレている人に限って『批判』だったり『指摘』だったり『諫言』だったりを気取っている場合が多いのです。

まず他者を批判したいのなら、その当人がどんなルールに則って行動したのか、しているのかを理解しなければ、正当な評価などできるはずがありません。

 

雑な比喩をするならば、バスケットボール選手に向かって「ボールを手で触ったからハンドね」と反則を指摘しているようなものです。

滑稽でしかありませんよね。

『2チームで1つのボールを奪い合い、ドリブルやパスで繋ぎつつ相手のゴールにボールを入れる試合』と聞いてサッカーだと思い込み、よく調べもせずに喚き立てる。

 

誰かの何かを批判するとき、その対象がどんなルールに則ってその結果に辿り着いたのかを理解する努力を惜しんではいけません。

 

また逆に、自分のことをロクに理解していない人から言われたことで腹を立てたり悲しんだりするのは大きな損失です。

全く気にしないのは難しいでしょうが、外野から何か言われたとしても受け流すのが精神衛生上の健康を保つ上策なのではないでしょうか。