どうも、坂津です。
ちょっと真面目なオハナシなので「てめぇにそんなモンは求めちゃいねーぜ」という方はそっ閉じで。
私たち夫婦は、とても仲良しです。
周囲で見聞きする夫婦像とはだいぶ違うという自覚があります。
「こないだまた嫁と喧嘩してさ」
「一緒に買い物なんか耐えられない」
「寝室を分けてもう何年だろう」
みんなそれが当たり前みたいな顔で言うんです。
でも私たちは違います。
休日は一緒に手をつないで買い物に行き、一緒にアニメを観て、一緒にお酒を呑みます。
私が仕事に行く前は行ってきますのチュウをして、帰宅の遅い私ですが妻は起きて待っててくれて、夕食を食べるときは横に居てくれて、夜は同じベッドで寝ています。
新婚ってわけじゃないです。
交際開始から10年、結婚して5年、通算15年の付き合いです。
若くもないです。
二人ともが『四捨五入すると40歳』です。
年齢の四捨五入ってあんまり意味無いですけどね。
そんな私たち夫婦は「子供をつくらない」と決めました。
これを公言しているのは、このブログでだけです。
会社や両親などには特に言っていません。
なので、よく聞かれるんです。
上司とか、両親とかに。
「坂津、子供はどうなんだ?そろそろじゃないのか?」
「孫はまだかねぇ(チラッ)双子でも大歓迎だけどねぇ(チラッ)」
そんなときは決まって、こう返すんです。
「まぁ、授かりモノなんでね・・・」
ウチは作らないって決めたんです、と言えないのはなぜなんでしょうか。
いつも胸の中にある「後ろめたい気持ち」の正体は何なのでしょうか。
謎の「肩身の狭さ」を感じるのはどうしてなのでしょうか。
今回はそんな私自身の気持ちについて考えてみます。
まず大前提として「夫婦には子供が居て当たり前」という刷り込みがあって、それが普通、それが正常、それが常識という社会で、私たちは生きています。
きっとその呪縛が「後ろめたさ」の原因のひとつだと思います。
だって、日本に生きる日本人には『国民の三大義務』というのがありますよね。
第二十六条 2項[編集] すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。
義務教育は、これを無償とする。
第二十七条[編集] すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
第三十条[編集] 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
私たち夫婦は、三大義務のうち二つしか果たせないんです。
これって、非国民てことなんですかね。
そりゃ人口増加に貢献できないんですから国力の低下を招く異端分子っていう烙印も、押されちゃうでしょうね。
ということは「日本人であり、かつ子供を作らない場合」後ろめたくて肩身が狭くても仕方無いってことでしょうか?
話はちょっと変わりまして。
会社でも学校でも、他人同士が集まって形成される集団は「社会」と呼ばれます。
私たち人間は「個」であると同時に、複数の「社会」に所属しています。
大きな単位で言えば国際社会なんて言葉がありますね。
小さい単位だと、家族が社会になると思います。
さて、誰しも経験があると思いますが、家に居るときと学校や会社に居るときで、自分の役割が違いますよね。
だから当然、違う顔をする。
家族と居るときの私、友達と居るときの私、同僚と居るときの私、一人で居るときの私。
そしてこのそれぞれの私には必ず、他者からの視点も付随します。
家族が認識する私、友達が認識する私、同僚が認識する私、私が認識する私。
これら私の集合体が、私という一個人なのです。
しかし状況によって、どの私が主導権を握るのかは変わります。
上司から呑みに誘われたとき、私をコントロールする私が、家族の私なのか仕事の私なのかで、回答はまるっきり違ったものになります。
さて、話は戻りまして。
子供をつくらないことに対する後ろめたさ、肩身の狭さ、もっと言えば「罪悪感」についてです。
深く深く自分の中身に思考の網を張り巡らせ、なんとなく分かったことがあります。
子供をつくらないと決めたのは、私と妻の二人です。
二人で形成している社会です。
この社会はとても小さいけれど、しかし私にとっては最重要社会です。
その社会の中で決まった事項が、子供をつくらないということです。
しかし、私が所属している社会はここだけではありません。
会社も、友人関係も、血縁関係も、このブログを通してのネット関係も、全て私が所属している社会です。
その社会の多くで「子供はつくるべき」「それが普通」という思想があり、その責任を果たさないという選択が、結果的に私の「罪悪感」を生み出しているような気がします。
もしかしたら、そんなの当たり前じゃんと思われるかもしれません。
しかし、私にとってこの気付きはとても大きな意味を持ちます。
私が抱く罪悪感は、私が複数の社会にちゃんと所属して、その社会での価値観をちゃんと理解しているからこそ発生するものだと思うからです。
子供をつくらないという選択は、私たち夫婦にとって最良の解だと思います。
しかし私が所属するその他の社会では、きっと愚策なのでしょう。
それが分かっているからこそ発生する「罪悪感」なのです。
むしろ開き直って「ええやん別に」と言ってしまうと、それは私が所属する社会の価値観を否定することになってしまいます。
いくら「個の時代」だとは言え、私たちは社会に帰属すること無く生きていくのは難しいのです。
これは「良い」「悪い」とか「有り」「無し」というような単純なものではありません。
私は私が感じる後ろめたさ、肩身が狭い思い、罪悪感、申し訳ない気持ち、それらを「私が社会に所属していることの証明」だと思います。
私の中にたくさんの私が居る以上、それぞれの間で矛盾が発生してしまうのは避けようがありません。
その矛盾の原因を自分の外に求めて騒ぎ立てたところで、結局は何の解決にもなりません。
私は私の選択を尊重しつつ、それと相反する価値観を持った社会の中で生きていくしかないのです。
ちなみに。
私たち夫婦がずっと仲良しで居られるのにも、恐らくこの考え方が適用されます。
私と妻が形成する社会の中でも、お互いがそれぞれ「相手は自分と違う社会に所属している面があって、そこはこの社会とは別世界」ということを理解しているからだと思います。
簡単に言うと「個人の尊重」ですかね。
私たちはついつい、家族だから、夫婦だから、みたいな思考から「甘えた考え」を持ってしまいがちです。
これくらい分かってくれるだろ。
こうしてくれるのが当然。
言わなくても気付いてくれるはず。
こうした甘えは、相手の一面しか見ていないから発生します。
人間というのは複雑な生き物です。
自分の視点から見える他人なんて、本当にごくごく一部分だけです。
それをちゃんと認識して、自分から見えない部分までまるごと尊重することが、きっと円満の秘訣なんじゃないかなぁと思います。