どうも、坂津です。
ちょっと古い話題ですが、二宮金次郎像が座るってのがありましたよね。
怪談じゃないですよ?
歩きスマホを助長するとか何とかで、座ってる像に代えるって話です。
最初に聞いた時から思ってましたが、ホント『馬鹿じゃねーの?』ですわ。
ただ調べてみたら、元々20世紀終盤から『現代の教育方針に合わない』的な発想でこの像自体が減ってたんですってね。
なんでも『真似して歩きながら本を読む児童がいて危険』だとか。
そんな理由で金次郎像が絶滅しちゃうのを避けるため、残したい派の方々が苦肉の策で座らせたんだそーです。
でもこれ、外回りのサラリーマンがサボって漫画読んでるみたいになっちゃいませんか。
さて、ちょっと荒ぶりますね。
そもそも、小賢しいクソガキに「金次郎だって歩きながら本読んでるじゃん」とか言われて言い返せないコトの方が重大な問題だと思いますよ。
当時は通学路の横を自動車がバンバン走ってるなんてことも無かったし、そもそも道で人とすれ違うこと自体がレアだったわけだし、本を読んでる金次郎に気付いた人はちゃんと避けてくれてたんだ。
ところが現在はそうじゃない。
油断してなくたって車の方から突っ込んでくるし、通勤通学時間のラッシュで瞬間人口密度は最高潮だし、親切な人どころか周囲は不審者でいっぱいだ。
だから『状況が違う』ってことを教えなきゃいけない。
それに対して「だったらこの像を置く意味が無い」「そもそも時代錯誤」なんて馬鹿げた下らない低俗な反論が出てくるかもしれない。
その「時代錯誤」とか言う陳腐な大義名分を振りかざすこと自体「私は物事から良い部分を見出し学ぶ能力がありません」と宣伝しているようなモノなのに。
二宮金次郎像に込められた思いは決して『登下校中に歩きながら本を読め』ではありません。
もしそのようにしか解釈できないのなら、そのような解釈しかできない教育を受けてきたということであり、それに対して憤って頂きたい。
もしこれがまかり通るのであれば、歴史を学ぶ意味すら危うくなってしまう。
温故知新って言葉、知ってる?
教育というものは決して、何かを排除することで成り立つようではダメだと思います。
例えば漫画やアニメもよく規制されたりしますけど、アレだって『現実と混同して子供に悪影響』みたいな薄っぺらい金切り声に押し負けた結果でしょ。
本来は『混同しないように教育する』のが教師、いや、親や周囲の大人の務めでしょう。
生来自分が所有している責任を、どうにか難癖を付けて外的要因に押し付けようと躍起になる世の中。
二宮金次郎像が、その犠牲者の象徴に見えてしかたありません。
もしこんなことが加速していくのなら、文章表現だって規制対象になる日も来ちゃうかもしれませんよ。
例えば比喩表現とか故事成語とか
・赤子の手を
・生き馬の目を抜こうとした疑いで書類送検。
・飛ぶ鳥を落とす為の矢を所持していたため任意同行。
・泣いていたことを考慮すると情状酌量の余地はあるものの
・死人に鞭を打っていたところを
・蛇は自分で生殺さず専門業者に依頼して駆除してもらいましょう。
・敵なんて居ません。塩を贈ったのは仲間だからです。
・
こんなのってアリ?
いや、無ぇよ。
ダメなものをダメと言えない大人がダメなものを隠しちゃう。
でも完全に隠すことなんて不可能だから子供には透けて見えちゃう。
だけど子供は隠すように教育されたからダメなコトは隠して生きる。
子供が隠してることに大人は気付けない。
この繰り返しが不健全な悪循環だということを理解して欲しい。
座ってる二宮金次郎像を見る子供には「ああ、声高に主張すれば割と何でも通るんだ」って現実を教えているようなもんです。
「ウチの子があの像を見て真似して本を読みながら道を歩いて事故に遭ったらどう責任を取ってくれるんですか!?」
「うるせぇそうならねぇようにテメェが教えろ!」
自分が外部に押し付けた責任のツケは、巡り巡って結局我が子に返ってくると思わないのかね。