どうも、坂津です。
ちょっと真面目な話しなので「え?馬鹿馬鹿しいのを読みに来たんだけど」という方はバックしてくださいね。
この時期の通勤途中は「ラジオ体操」に向かう子供たちの群れを見掛けます。
普段の彼らは日中、「学校」という集合場所に集められ、大人から知恵を授けられます。
これは、なるべく多くの個体がこの世界で生き残っていけるようにという、生物としての工夫です。
しかし現在は「夏休み」という特別な期間であり、子供たちは「学校」に集められることなく、それぞれの巣で思い思いの時間を過ごすことができます。
子供たちの習性として、翌日に「学校」へ行かないということが予め分かっている場合、その前夜は遅くまで起きていて就寝時間が遅れます。
それは、遅くまで起きていたとしても、その分だけ遅くまで寝ていられる、つまり睡眠時間そのものは短くならないからです。
が。
「夏休み」という期間中、子供たちに訪れる試練があります。
それが「ラジオ体操」という風習です。
子供たちは夜更かしをしていたにも関わらず早朝に叩き起こされ、重要度も優先度もまるで理解できない「ラジオ体操」というヘンテコな身体の動きを強要される場所へ誘われます。
まだ長期的な視点を持ち得ない子供たちは「早起き習慣の価値」や「基礎体力づくり」「身体の柔軟性」「健康に良い」などという「経年による加齢によってのみ理解できる価値」を説かれても、それが響くことはありません。
ただし、子供達には個体差があります。
「何のために」という根源的な疑問を捨て「これがルール」「決まりには従う」という素直な受容を以って現地に臨む個体も見られます。
また「ラジオ体操」そのものでは無く、そこに至る過程や、付随する現象に価値を見出す個体も存在します。
彼らは道中で視界に入る草木や昆虫などに興味を注ぎ、また共に集う仲間たちとのじゃれ合うことを主たる喜びとしているのです。
中には「溜まっていくスタンプを集めずにいられない」という本能に逆らえないタイプも居るようです。
「ラジオ体操」には1日参加すると1つ、カードにスタンプを押印してもらえます。
これを「ラジオ体操」の期間中、途切れることなく最終日まで集め続けたところで、その努力に見合うだけの報酬は得られません。
最終日に何体の子供たちが参加するのか読めない大人は、多めに見積もった適当な数の駄菓子を用意しており、本来はスタンプが全数溜まっている個体にのみ譲渡するはずの駄菓子を、目の前の子どもたち全員に配布してしまうのです。
そこには、毎日欠かさず「ラジオ体操」に参加した子供も、最終日だけたまたま参加した子供も、差は発生しないのです。
差が発生しないという差が、発生しているのです。
こんな数々の矛盾を内包した謎の儀式「ラジオ体操」に対し、私も子供だった当時は疑問を感じていました。
しかしその疑問がやがて我が身を滅ぼす毒となることを恐れた私はそれを封印し、ありのままを受け入れました。
既存ルールに疑問を持つな。
今ある流れに逆らうな。
和を乱してはならぬ。
通勤中にラジオ体操に向かう子供を見ながら、上記のようなことを考えました。
ああ、私も子供なりに色々と考えていたんだなぁと、思い出しました。
で、芋づる式にとあるブログの記事も思い出しました。
山田 新之介(id:globalizer)さんの記事は、取り上げる題材も、それに対するアプローチも実に私好みで好きなのです。
考えるに、現在の教育の在り方は「舗装整備した道だけを歩くよう」に指導していると感じます。
それは学校だけに限らず、家庭でも知らず知らずのうちにそうなっているような気がします。
そして結果的に視野の狭い、思考の浅い、器の小さな人間がどんどん製造されていっているような気がします。
「汚いから触っちゃだめ」
「危ないから行っちゃだめ」
「身体に悪いから食べちゃだめ」
「将来役に立つから教えよう」
「成長に良いから飲ませよう」
「面倒見やすいからこうしよう」
管理側の都合で多くの経験を奪われた子供たち。
恐らく、すでにそれを経てきた側からすれば「そんな経験はしなくて良い」と思っているからこその措置であり、そこには微塵の悪気もありません。
しかしどう考えても、時代が進むにつれて『過保護』がエスカレートしているように思えてなりません。
だからと言って解決策があるわけでもないのですけどね。
なので、私はせめて私が管理する対象としての部下たちには、たくさん失敗して泥んこになって欲しいと思っています。
自分で考えて、実行して、失敗して、
そうすることが最も手っ取り早く「自分の世界を広げる」ことに繋がりますし、「広い世界観を持っている人」の方が、あらゆる局面において「強い」と信じているからです。