どうも、坂津です。
今日はクリスマス・イヴ。
なんて言ってる人も多いですが、違いますよ。
クリスマス・イヴというのは『クリスマスの前日』という意味ではなく『クリスマスの夜』という意味です。
ただ例え誤用であっても、それが広く永く使用され続けると、いつの間にか正解になっちゃうんですよね。
『確信犯』なんかも良い例です。
悪いと知りつつやっちゃう場面で使われがちですが、本来は自分が正しいと心から信じて行う犯罪のことですからね。
ですが現在の評価基準、判断基準に照らせば明らかな誤りであったとしても、それを多くの人が多くの機会に使用し、それが永く続いたならば、いつしか正解にすり変わるというのが人の世の常みたいです。
つまり『“正しさ”を意図的に構築することは可能』ってわけです。
もちろん社会で一般的に通用する正しさを新しく創造するためには、多くの人々がその思想を知り、信じ、利用し続けなければなりません。
それには『人々が信じやすく』『耳触りが良く』『日常的に使える』という装飾を、その思想に施す必要があります。
例えば『いじめ、カッコ悪い』とかね。
今、この言葉を聞いて「そんなワケ無い」とか「それは違うでしょ」と反論する人はごく少数だと思います。
だって随分昔から『いじめは良くない』っていう思想は私たちの周りの目に見えるところに置かれて、ことあるごとに耳元で囁かれてきましたから、そりゃ刷り込まれちゃいますよ。
いや、もちろんこの言葉が間違いってワケじゃないんですよ?
でもプラスには受け取れないんですよね。
マイナスにマイナスを掛けるとプラスになるのは算数だけ。
いじめというマイナスの要素を抑制するんだからプラスでしょという考えはちょっと違うと思うんです。
だって『いじめは良くない』『いじめはダメ』『いじめを根絶』って言葉は、まずいじめという思想、行為、現象の存在を認めちゃってるからね。
それを長年に渡って延々と聞かされて育った私たちに、最早『いじめは無くせる』という主張は夢物語にしか聞こえません。
だって、在るから。
ずーっと、在るから。
どうやったって無くなることなんて無いけど、少しでも減らせれば・・・くらいの考えにしか辿り着けないんですよ。
人間の脳って、肯定と否定の区別がつかないんですってね。
だから例えば自分の理想からかけ離れた人を見て「ああは成りたくない」って思ったとしても無意識にその人物像に寄ってしまうんだって。
なので「なりたくない」よりも、「ああいう人に成りたい」と思えるに足る人物の傍に居る方が成長できるんだと。
もし仮に、今まで目にした耳にした『いじめは良くない』という文字列が、音声が、全て『みんな仲良く』だったとしたら。
いじめを無くすにはどうすれば・・・ではなく、みんながもっと仲良くなれるにはどうしたら・・・という議論が夜な夜な放送される世の中になっていたかも知れないですね。