『かなり』

ハロウィンとクリスマスの移行期

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脳内アウトプット

どうも、坂津です。

この記事は私の考えをまとめるため、日ごろからなんとなく漠然と思っていることを文字列として表現してみるという試みのために書かれています。

特に意味はありませんので悪しからずご了承ください。

 

私たち人間は名付けるという行為にとても重要な意味、意義を感じます。

名前は大切なものであり、不可欠なものであると考えています。

それは人の名前であっても物の名前であっても同様です。

名前を重要視してしまうというこの人間が持つ根源的な性質は、私たちの自我の貧弱さ故なのではないかと、私は考えています。

もちろん他者との意思疎通を行うにあたり、共通認識を得るための道具として名前を利用することはあります。

仮に名前という概念が存在しないと考えた場合、私たちは途端に意味のある会話ができなくなってしまうでしょう。

しかし、この名前が無い世界について考えたとき、その状況に窮さない存在というものを想像することはできます。

当然ですが動植物は何も変わらず在り続けるでしょう。

名前という概念は人間だけが持つものですから、それが無くなって影響が出るのは人間だけです。

名詞を一切使わないで思考することができるか試してみましたが、不可能でした。

ただ、そんな世界でも特に困ること無く生きていける人間という存在を想像してみたとき、その人物には『圧倒的自我』が必要だと考えたのです。

これはフロイトが言う超自我とは全く別の物です。

超自我とは、簡単に言えば自身を抑制するための道徳規範のようなものであり、人間が複数個体で社会を形成し、共生するための機能として働きます。

私が『圧倒的自我』と呼ぶのは、文字通り他を圧倒するほどの自我という意味です。

自分が自分で在りさえすればそれで良しとするようなもので、他者への興味、関心が極めて薄い存在が持つ自我のことです。

言ってしまえば範馬勇次郎やミギーなどが近いように思います。

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彼らに共通する特徴として、個としての強さが挙げられます。

それも他を遥かに凌駕する突出した強さです。

生物として生命力が高いことは当然として、戦闘力や判断力、特に自身が生き抜くための能力に関しては一際です。

彼らが持つ自我であれば、例え名前という概念が存在しない世界であっても生存に耐え得るのではないかと思えるのです。

圧倒的自我を持つから生命体として強いのか、強いからこそ圧倒的自我を持てるのか、それは分かりません。

鶏と卵の論争と同じです。

ただひとつ言えるのは、名前に重きを置くという文化、価値観は、私たち人間が圧倒的自我を持たなかったからこそ生まれたものだと言うことです。

比較すべき他者、目指すべき他者、支配すべき他者などなど、他者を通してしか自己を確立できないような弱弱しい自我の支柱として、名前は存在します。

朝顔の鉢に刺す棒のごとき存在、それが名前なのです。

 

だから何だって感じなのですが、なんだかこの考え方の先に、何か新しい発見があるような気がしてならないのです。

もう何年もずっとこんな風に考えを巡らせつつ、いつもここで思考が行き詰まるんですよね。

いつかブレイクスルーできる日が来るのでしょうか。