どうも、坂津です。
『他者の為に自己を犠牲にするような行動を取ったとしても、それはそうすることが自己の満足に繋がるからであり、最終的にどのような判断をしようとも、全ての行動は何らかの形で自己の利益に繋がる。よって100%の献身、善意などは存在せず、その意味で人は誰しもが偽善者なのである』
みたいなことを、考えたことありませんか?
中学生の頃の私はとにかく面倒くさい奴で、こんなことばっかり考えていました。
この世に善人など居ない。
人はみな最終的には自分の為になる行動しか取れない。
こんなごく普通で当たり前の結論に至り、勝手に世界に絶望し、そこより先への深い思考を放棄して悲しみに暮れる痛い子でした。
世の中の悲痛を一人で背負い込んでいるような錯覚に陥ることで負の愉悦に浸る、倒錯した中2病患者だったのです。
しかし嘆き系中2病の時期はそんなに長くありませんでした。
担任の先生の一言によって目が覚めたからです。
坂津「つまりみんな偽善者なんです。先生、あなたもね」
先生「そう言われたら確かにそうだな。坂津はすごいな」
坂津「ほっ、褒められたって嬉しくないんだからねっ!」
先生「先生は子供の頃にそんなこと考えもしなかったよ」
坂津「良いじゃないですか。気付かない方が幸せですよ」
先生「でもな坂津、100%の善人が居ないんならな?」
先生は小生意気な中2病坂津に真正面から向き合ってくれました。
そして、こんなことを言ったのです。
先生「そもそも善人の定義からやり直したらどうだろう」
坂津「え?善人の定義?つまりどういうことだってばよ」
先生「存在しないと言うのは純度100%の善人だろ?」
坂津「そうですね。『自分の為』は必ず混入しますから」
先生「だったら、70%くらいからを善人って呼べば?」
坂津「・・・え?」
先生「なら少なくとも世界に善人がゼロでは無くなるよ」
存在しないものに対してその非存在を嘆くのが如何に愚かなことか。
現状に照らした再定義によって世界を見る角度を変えなさい、と先生は教えてくれた(んだと思う)。
『善人が居ないことを悲しむのではなく、居ないと結論付けるに至った根拠になる定義からやり直してみよう』
こんな着想には、自分一人では絶対にたどり着けなかったと思います。
人間の行動には必ず『自分の為』という動機が混入するのならば、そもそもそれを除いた善人という存在に価値を求めるのが間違いだったのです。
このとき私は『世界は自分の考え方次第である程度その有り様を変える』という考えを持つきっかけを掴みました。
毎日が面白くないとか、人生がつまらないとか、不安、恐れ、悩み、苦しみ、そんな心の内にある感情は、その大半が『自分でそういう風に考えちゃってる』だけなのです。
担任の先生にはホント、感謝してもし足りないほどです。