『かなり』

干支に入れてよ猫

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変化を愉しむ

どうも、坂津です。

私はあと半年ほどで四十路を迎えるわけですが、この年齢になって初めて良さが分かり始めたことが多々あります。

若いころは特に良いと思わなかったコト、モノに対して価値を認めるようになっているのです。

 

ずっと前、こんな記事を書きました。

簡単に言えば『例えば何かの作品に対して“面白くない”という評価を下すのは、“自分にはこの作品から面白さを見つけ出すことができませんでした”と言ってるようなモンですよ』ってことが書いてあります。

 

自分で書いててナンですが、ホントにそうだなと思います。

何らかの対象に評価をするとき、それがその対象の成長や改善に繋がる場合のみ、酷評というものは許されるんだと、私は考えています。

そうではない場面で、例えば何かの作品や誰かの能力に対し、言う必要の無い悪口や、悪意しか無いバッシングなどを見ると可哀想になります。

年齢を重ねたあと、自分のその発言、発信をすごく後悔する日が来るでしょうからね。

自分の若さ、無知さ、無能さ故に不用意に他者を貶めてしまったと。

 

小学生の頃の私に言いたい。

 

「納豆の味を好きになれないのはお前が未熟だからだよ。納豆を、そして納豆が好きな人を責めるのは間違いだ。数年後、お前は無類の納豆好きになるんだからな」

 

人間なんて、いつ何のきっかけで考え方や価値観、味覚や嗜好が変わるか分かりません。

もうおっさんの私ですら、これからまだ変化する気満々です。

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そういう変化(必ずしも成長とは限らない)を迎えたとき、変わる前の自分が足枷にならないように生きるためには、必要以上に攻撃的にならないことです。

心の中でこっそり「嫌だな」と思うだけで済むことがたくさんあるハズですよ。

 

すごく分かりやすいのは、若い頃「死ねよジジイ」とか無闇にわめいてる人が歳を経てジジイになった場面を想像することですかね。

きっとすごく後悔すると思いませんか?

 

もし仮に何か不満や不快感を覚えることに遭遇しても、心の中でこっそり「嫌だな」と思うだけで済むことがたくさんあるハズです。

もちろん自分が声高に主張することで何かが改善し、それが誰かのためになると思ったときは胸を張って声を上げれば良いですが、特に貫徹すべき主義主張も無く、単なる刹那的で感情的な遠吠えは、控えた方が自分のためだと思うのです。