どうも、坂津です。
世の中には多様な決まり事、規則、掟、しきたりがあります。
それは所属するコミュニティごとに設定されており、国の法律から家族内の約束事まで大小様々です。
効力の範囲や罰則の有無などもそれぞれバラバラですが、しかし共通していることがひとつだけあります。
それは『そのルールを皆が遵守することでそのコミュニティが円滑に機能する』という目的のために制定されたということです。
分かりやすいのは交通法でしょうか。
制限速度や一旦停止、一方通行、信号などなど、全てのドライバーがきっちりルールを守れば交通社会は極めて良い環境になることでしょう。
しかし人間というものは、何かと自分勝手な理由をつけて『ちょっとだけ』『今だけ』『1回だけ』などという自分用免罪符をセルフ発行してしまう生き物です。
急いでいるから仕方ない。
体調が悪いから許される。
他の人もやっているから。
そこには明確に『本当は良くないことをしている』という自覚があり、それでもなお『だってしょうがないじゃない』という甘えが存在しています。
ここで言う『甘え』とはすなわち『許容』であり『恩赦』であり『免罪』です。
身勝手で自己中心的な理由を振りかざし、それを汲んで『特に赦す』と言われたい気持ちです。
さて、こうした個人ごとが内包するちょっとした甘えの数々。
これは実はその場で消えて無くなるわけではありません。
積もり積もって、皆の分が寄り集まって、大きな大きな社会問題まで育ちます。
連日ニュースなどで騒がれている内容から自然災害を除いたものの大半が、元はと言えばこの『甘え』が根源になっています。
これは間違いありません。
人は甘える生き物なのです。
ところで、甘えが成立するためには不可欠なものがあります。
それは、その甘えを受ける側の存在です。
親子であったり恋人同士であったり、またペットと飼い主でも甘えは成立するかも知れません。
つまり甘える側の身勝手な理由を察して汲んで読んで理解して、それでも許す存在が必須なのです。
では『許してくれる相手が不在な甘え』は、何なのでしょうか。
誰にも許されるハズが無いと知りながら、それでもやってしまう甘えとは。
単純に『可哀相』とか『キモい』とか『意味不明』とか思いませんか?
それがそこそこいい歳をした大人だったら『不憫』『滑稽』とは思いませんか?
自分が何かをしようとしたとき、それが『甘え』になっていないかを振り返り、そしてそれを許してくれる人が居るか居ないかまで考える。
そんな余裕のある生活を送りたいと思います。