『かなり』

干支に入れてよ猫

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とりあえずやってみよう

どうも、坂津です。

人間には五感というものがあります。

『視覚』『聴覚』『触覚』『味覚』『嗅覚』がそれです。

私たちはこの五感を通して世界と繋がっています。

 

さぁ。

 

メタフィジカル的な意味での『私』という存在と、五感を伝達する機器としての肉体を有したフィジカルな意味での『私』という存在を想像してみてください。

 

噛み砕いて言えば、視覚的に何かを見て映像情報を受信するのが『フィジカルな私』であり、それに対して可愛いとか面白いとか何らかの価値観を伴った判断を下すのが『メタフィジカルな私』です。

 

『フィジカル=物理学的』『メタフィジカル形而上学的』と表現した方が分かりやすいでしょうか。

 

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この図で言えば矢印がフィジカルな『感覚』で、雲型がメタフィジカルな『感想』です。

 

さて、感覚器官が受信する信号を、自分の意思で変更することは大変難しいことです。

美味しくない食べ物を美味しいと思い込んで食べることや、痛い刺激を痛くないと思い込んで我慢することなどは、特殊な訓練を積まなければ無理でしょう。

しかし、そこから先の『感想』の部分について、私たち人間の精神構造は意外とフレキシブルにできています。

 

つまり、不味いものを食べたときにそれを美味しいと感じることは困難でも『うっわコレまっず・・・最悪・・・』とか『これは不味い!よしブログのネタになる!』とか、その感覚についてどのような感想を持つかは自由なのです。

 

そして重要な真実をひとつ。

 

それは『私たちの世界は、私たちの感想によって構築されている』ということです。

 

しかし私たちはフィジカルな知識ばかりを先行して学びました。

それによって『私』と『世界』を個別に考えるように刷り込まれています。

故に私たちは、『私』が存在しようと存在しまいと『世界』はそのものとして在り続ける、という考え方を常識として持たされてしまっています。

これは別に悪いことではありません。

『私』とは別に『他者』という存在を肯定し、『私』と『他者』とで構成される『社会』を円滑に回す為には必須の概念です。

しかし何事にも加減というものがあります。

あまりにもフィジカル先行が過ぎると、副作用が発生してしまいます。

 

その副作用とは『私と世界の乖離かいり』です。

 

本来『私たちの感想によって構築されている』はずの世界に対し、『私』の影響が及ばない独立した絶対的存在として認識してしまうということです。

 

つまり『世界とはこういうもの』という思い込みが発生するというわけです。

この『副作用=思い込み』に取り憑かれてしまった人は、世界の在り方を固定してしまうのです。

しかも性質タチが悪いことに「そうじゃないよ」「世界はもっと自由だよ」という他者からのアドバイスも含めて固定化された『世界』なので、この副作用の解除は容易ではありません。

 

ただしひとつだけ、この状況にも特効薬と呼べるものがあります。

 

それは『じゃなかった経験』です。

 

いわゆる「思ってたより悪くなかった」的なアレです。

食わず嫌いと言った方が分かりやすいでしょうか。

ともかく、何か行動を起こす前にアレコレと『やらない言い訳』を先に立てるのではなく「まぁとりあえずやってみよう!」という精神で諸々に臨むことが、なにより効果的なのです。

 

と言うわけで、私はこの世界を前向きに捉え楽しむために、思い付いたことはどんどんやってみる所存であります。

 

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いやぁ・・・

 

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やっぱコレは無ぇな。