どうも、坂津です。
ちょっと重たい内容(ネタでなく)なので「貴様にシリアスなぞ求めておらぬ」という方はバックバックです。
もう語られ尽した話題ですよね。
結局のところ色んな立場からの色んな意見があって、混じり合うこと無く平行線なのは分かってるんですよ。
ただみんな「できるもんならどうにかしたい」という部分は共通だと思います。
その、どうにかするための方向性を検討することは、放棄しちゃいけないんですよね。
なぜか我々は「臭い物に蓋」をして済ます傾向が強いくせに、定期的にその蓋を開けて臭さを確認して「やっぱ臭ぇな」と顔をしかめながら「何とかしなきゃな」と言いつつまた蓋をすることを繰り返しています。
私の個人的な話ですが、小学校高学年くらいから中学校の2年生まで、いわゆる「いじめられっ子」でした。
きっかけは家の引っ越しによる転校でした。
自分で言うのもなんですが、私は新しい環境に馴染むのは得意な方だと思っていたのに、ショックでした。
まず服装。
それまで通っていた学校は私服でしたが、新しい学校は制服でした。
夏休み中の転校で、二学期からの編入ということでした。
しかしそのお陰で制服を準備する時間が無く、二学期が始まってから制服を準備するということで大人側の話がついていたようです。
私は数日間、クラスの全員が制服でいる教室内に一人だけ私服という状態でした。
嫌でも目立ちます。
でもそれはそれで良かったんです。
目立つのは好きでした。
注目されることに喜びを感じていました。
その視線の中身が、徐々に変質していくことには気が付きませんでした。
大きな要因は、普段の会話で使う言葉でした。
私の祖父母は方言が激しかったです。
でもそのお陰で子供の頃から「何と言っているか」を汲み取る能力は伸びたと思います。
ですから新しい学校でも特にコミュニケーションに不安はありませんでした。
しかし、相手が何を言っているか分かることと、その地方の方言を話せることには大きな開きがあったのです。
標準語を話す私は、皆と同じ制服に身を包むようになっても浮き続けました。
どうもクラスメイト、特に男の子たちには標準語でしゃべることが「ナヨナヨしい」印象を与えているようでした。
子供ながらに悩み、方言で話そうともしましたが、やはりイントネーションが一朝一夕で身に付くはずがなく、余計な違和感を生みました。
ようやく「あれ?もしかして良くない方の目立ちかたなんじゃ?」と自覚するようになりました。
ここからが本題です。
私はこのあと中学二年生になるまで、大小様々ないじめを継続されました。
軽いものでは悪口陰口から始まり、プロレス技をかけられたり、一発芸を強要されたり、屋上で暴行を受けたりしました。
ちょっと重いものだと、下駄箱が燃やされたり(木製でした。当然他の子たちの靴まで燃えてしまい大問題になりました)川に突き落とされたりしました。
しかし、おかしなことに当時のこのとき、私にはいじめられているという自覚はありませんでした。
今思い返せば「ああ、虐められていたなぁ」と理解できますが、これらの行為を受けている私は「鬼ごっこの鬼ばっかりやることになるなぁ」ぐらいの感覚でした。
ですから、別にそのことで自殺とか復讐とか、そういうコトは考えませんでした。
なぜなら、いじめっ子である彼らが「絶対的な存在」では無かったからです。
身近に「怖い先生」が居たからなんだと思います。
担任であろうが、他の学校の先生であろうが。
とにかく「叱りつける先生」という存在があり、その前ではいじめっ子もいじめられっ子も平等でした。
そして先生は決まって「仲良くしなさい」と言いました。
「いじめちゃダメ」では無く「仲良くしなさい」です。
もしこのとき、先生からいじめっ子に「坂津くんをいじめちゃダメ」という言葉があったなら、私はきっと自分がいじめられていると自覚したでしょう。
しかもその先生が「いじめ良くない」と言うばっかりで、何の手も差し伸べてくれなかったとしたら、今の私は居ないかも知れません。
結局私は、彼らと仲良くするにはどうしたら良いかを考え、彼らにされるのと同じことをし返せば仲良くなれるという答えに辿り着きました。
蹴られたら蹴り返し、殴られたら殴り返しました。
一緒に先生に怒られ、そして本当に仲良くなりました。
ごく短い間だけの悪友ではありましたが、それはそれは楽しく遊びました。
彼らとの一幕は以前チラリとご紹介したことがあります。
お題スロットを連続で回してみた結果がこれだよ - 『かなり』
きっと、いじめ自体は昔からずーっと在って、これから先も無くなることはないんだと思います。
でもいじめの「質」は変えられるんじゃないかな。
「これ以上やっちゃマズい」
「先生にバレちゃう」
こういう心の制動が働く程度のいじめなら、そんな大問題じゃないと思います。
除菌、殺菌が徹底されている世の中で、人間の耐性がどんどん弱くなっているという話を聞いたことがあります。
子供を取り巻く環境が全ての面でそうなってしまっているんじゃないかと思います。
学校の先生は怖いもの。
悪いことをしたらしこたま怒られる。
そういう「前世代の当たり前」こそが、いじめの質を昔に戻せる手段なんじゃないかと。
自分たちの親が学校のミスを糾弾し先生を吊るし上げているのを見た子供は、先生を頼もしいとか怖いなんて思えないですよね。
そんな「頼りない像」を作り上げられてしまった先生に、何の威厳がありましょう。
それなのに学校内で起きるいじめは全部学校のせい?
「いじめを無くそう」と言いながら学校を、先生をいじめているという構図に矛盾を感じない子供なんて居ないんじゃないでしょうか。
家の周りに野良猫がいるのでネコヨラズを大量に仕込んだら、猫は居なくなったけど今度は大量のネズミが湧きました。
ちょうどこんな感じなんじゃないでしょうか。
まぁあくまで私個人の経験からの浅知恵なので、反対の方も多いとは思います。
でも、多くの学校環境が今のままで良いなんて誰も思って無い(もしかしたらごく一部の人は除く?)でしょう。
ただ、どんな改善手段を講じようとしたって、結局どこかの角度から「それにはこんな危険性がある」とか「なぜこうなる可能性を考えない」とか、色んな意見が出てきます。
そしてそれらに耳を傾けていると一向に動けない。
こんなことを書きつつ、私が何か行動するかと言えば結局は誰か力強いリーダーシップで強引にでも改革してくれないかなぁと他力本願なのだけれど。