『かなり』

干支に入れてよ猫

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徒然w

どうも、坂津です。

突然ですが、私たちの連続性を保証するものって、何でしょうか?

もっと噛み砕いた表現をするならば『今の私が昨日の私と同一人物であることの証明』は、どのように行われるのでしょうか。

 

結論から言えばそれは『他者からの認識』以外で行われることはありません。

例え自分自身がどれだけ『私は私』と思っていたとしても、他者から別人だと認識されてしまえばそれは別人なのです。

 

私たちは人間という種で生を受けた瞬間『他者との関係を放棄した圧倒的な個』から遠ざかることを運命づけられています。

しかしその『個』は消失してしまうのではなく、弱体化しながらも内なる意識として確実に存在しています。

そうであるにも関わらず、その『内なる個』とは別に、他者から認識される『外なる個』も同時に存在しています。

往々にしてこの『内なる個』と『外なる個』は同一であらねばならないという思い込みが、多くの不幸の原因になっているのですが、それはまた別のお話。

 

さて、『私が私である証明』についてですが、先にも述べたようにそれは他者によってのみ可能となります。

このブログで駄記事を書き綴っている坂津佳奈という人格があり、例えばある日突然エントリの内容や文体が一変したとします。

読者の皆様が口を揃えて「坂津の中の人って変わった?」「完全に別人だよね」と言うようになり、過去の記事との比較検証などが行われ、やがて確信を持って「やはり別人」と結論付けられたとしたら、それは『これまでの坂津佳奈の死』を意味します。

書いている当人である私自身がもし「待ってくれ、これは私だ」といくら叫んだところで、それは私が私である証明として何ら意味を成さないのです。

 

逆に、私が人知れず消え去り、全くの別人がこのブログを運営し続けた場合でも、誰もそれに気が付かなければ、坂津佳奈は存在し続けるのです。

 

こういう議論になると大抵持ち上がる『他者を排除した思考』ですが、実はその哲学的思考実験には大きな罠があります。

思考実験とは『誰からも認識されていない自分という存在を仮定したとき、自分を自分であると認識する自我こそ私を私たらしめるものに他ならない』というアレです。

そして罠とは、こういう思考をしているのは紛れもなく自分自身であり、だからこそ『他者という存在は思考で排除できるけど、自我を排除することはできない』という事実です。

つまり最初から他者と自分自身が同じ土俵に上がっていないのに、無理やり試合をしている状態なのです。

 

要するに、『私が昨日と同じ連続性を持った存在であることを証明できる存在』として、どちらがより相応しいか、他者と自分自身を等しい条件に置いて考えなければなりません。

 

これらを踏まえて考えるに、やはり私たちは『他者からの認識』に依ってのみ自身の連続性を証明することができるのです。

 

ところで、これは個人だけの話では無く『社会』に於いても同様のことが言えます。

例えば分かりやすいのが『企業』ですね。

仮にどこかの企業の経営者や従業員が総入れ替えされたとしても、私たちはその企業を過去と同一の存在として認識します。

例えば社名を変更した場合でも、やはり私たちはその企業の連続性を認識するでしょう。

これは規模をもう少し大きくして『国』について考えた場合でも同じです。

 

国というコミュニティが存在し、そこにそれを形成する国民が居ます。

しかしその国を国たらしめているのは国民ではなく、まして政を動かしている一握りの代表者たちでもなく、諸外国からの認識です。

国家が国家として存在していくための最も重要な要因は、まず諸外国からの認識なのです。

 

さて、人間の体は常に新陳代謝を繰り返しています。

1年前の自分と現在の自分では、細胞レベルで全くの別人になっています。

国も同様に、100年も経てばほとんどの国民は一新されています。

にも関わらず過去と同一の国家として存在していると証明できるのは、他国からの認識以外には有り得ません。

 

ですから私たち日本人がいくら内側から『日本人らしさ』『日本という国の在り方』なんてことを声高に訴えたとしても、それは諸外国には通用しません。

だって『自分が認識してる自分』と『他者から認識されている自分』には絶望的な差があるのと同様に、いわゆる『日本性』は自国民のものと外国からの視点で大きく乖離していますから。

 

私たちは盲目的に『戦争 ダメ 絶対』と信じるよう刷り込まれてきました。

それこそ本当に盲目的に。

「ダメだよ戦争なんて」

「なんで?」

「ダメだからダメなんだよ」

みたいな答えしかできないんです。

そこにもっともらしく『日本だから』みたいな概念をくっつけるから、余計に分かりにくくなるんです。

 

外国から見たら、核兵器を持とうが戦争に参加しようが、日本は日本です。

「変わったね」という評価は下されるでしょうけど、それが日本の日本性を損なうことにはなりません。

だって日本性なんて、無いんですから。

 

さて、だんだん何が言いたいのか分からなくなってきましたが、そもそもこの記事を書こうと思ったきっかけは『北からのミサイルに対抗する兵器を導入する』みたいなニュースを見たことでした。

それ自体の善し悪しを議論するとき、やっぱりそこに『日本は戦争しちゃダメな国だからダメなんだよ』みたいな空気がどうしても拭えないんですよね。

 

私は別に戦争をしようがしまいが、兵器を持とうが持つまいが、どちらでも構いません。

そこに明確な理由が在るのなら。

納得はできなくとも、理解はできますので。

しかしその反対理由に『日本が日本でなくなってしまう』みたいな概念を持ち込んで議論をしないで欲しいと思うのです。

途端にバックボーンが希薄になってしまい、そちら側の意見を応援できなくなってしまうのです。