『かなり』

干支に入れてよ猫

【スポンサーリンク】

表現するということ

どうも、坂津です。

私は小学生の頃、映画か何かで『ノワールが黒、ルージュが赤』という意味であることを覚えました。

その後、ルージュが口紅を指す場合もあることを知らないまま、親が車内で流す松任谷由実の『ルージュの伝言』や中島みゆきの『ルージュ』を聴いていました。

そもそもが子供には理解不能な歌詞ではありますが、その上で『ルージュ=赤』という認識しかない私にとってこれらの楽曲は全く意味の分からないものでした。

 

口頭にしても文章にしても、言語を用いて情報を伝達する場合には、伝える側と受け取る側で共通の認識が必要です。

しかしどう頑張っても、伝える側の意図を100%相手に伝えきることはできません。

伝えるために言語として出力されるときと、受け取るために言語として入力されるとき、少なくとも2回は『情報が劣化する』のです。

 

例えば、怖い体験をしたときのことを他者に話すとしましょう。

『物凄く怖かった』と言ったとき、本人の体験した『怖さの程度』が『物凄く』という言葉に変換され、経験そのものから言えば情報として劣化しています。

そしてそれを受け取った相手の中には、その当人による『物凄く』という言葉に対する尺度が存在します。

これが発する側と受け取る側で必ずしも一致するとは限りません。

むしろ一致することなど無いと言った方が正しいかも知れません。

『物凄く』の代わりに『身の毛もよだつような』とか『今までの人生で一番』とか『死を覚悟するレベルで』なんかに言い換えたとしても、やはり結果は同じことです。

 

これをなるべく回避するために、曖昧な表現を極力排除して事実だけを正確にアウトプットする方法があります。

しかし例えば「夜ホラー映画を見ている最中にブレーカーが落ちて部屋が真っ暗になった」と言った場合、起こった事象はなるべく正確に伝達できるでしょうが、そこで当事者が感じた恐怖や不安などについては、受け手側の想像力に頼ることになります。

 

で。

 

情報を伝達する場合、大まかに2種類のケースがあります。

ひとつは、取扱説明書や辞典や契約書など『100%の相互理解が望ましい媒体』と、そして歌詞やポエム、小説などの『受け取る側に解釈の幅が有って良い媒体』です。

前者は誤解が少なくなるよう、専門用語を避けるか、使用する場合は分かりやすい説明書きを付帯するかし、とにかく分かりやすさを追求します。

そのため簡潔さや情緒的な表現からは遠ざかってしまいます。

後者の場合、広く誰にでも同一の理解を求めるものではなく、むしろ受信者が発信者の意図しない解釈をすることこそ狙いだったりすることもあります。

 

『大きな黒い傷のような模様が額にある猫』という言葉。

これは『大きな』と『黒い』という形容詞が『傷のような模様』に掛かっているのか『猫』に掛かっているのかで情報が異なってきます。

f:id:sakatsu_kana:20200514105715j:plain

f:id:sakatsu_kana:20200514110342j:plain

上記2種類の絵の、どちらも『大きな黒い傷のような模様が額にある猫』という言葉で表現できてしまうのです。

 

相互に同等の理解が必要な場面で恣意的にこれをやってしまうと、それはつまり詐欺ということになりますので注意が必要です。

これを意図的にやって良いのは、先の例でもあったように、芸術や文化関連の創作の特権です。

敢えて受け手側に誤解させるような表現を使うミスリードという技法や、錯視や錯覚を利用したアートはそれとして成立し、評価の対象となります。

 

このように、何かの情報を伝達するための表現には、その目的によって方法を選ばなければなりません。

レシピ本に『小麦粉:“彼に対するあなたの気持ちの分だけ”』とか書かれてても何の役にも立ちません。

恋愛小説に『副交感神経の作用によって涙腺から情動性分泌された涙液が涙液メニスカスの許容量を超えた』と書かれても全く心に響きません。

 

何らかの表現をするのならば、まずはその『目的』『どんな人にどんな解釈をして欲しいか』の想定が必要なのです。