どうも、坂津です。
アウターゾーンはやっぱり面白いですねぇ。
文章とかもそうですが、一話完結で短編で不思議系が好きなんですよ、私。
で、なるべくオチが読めず、最後の最後で「えぇー!」とか「なるほど!」とか「こう来たかー!」とか思わせてくれる作品が大好きです。
で、そういう作品に共通して言えるのはやっぱり「読む側の理解力とか想像力が補完することで完成する」ということなんですよね。
あえて80%の表現に留めることで、不足分の20%を受け手側に委託するんですよ。
きっとこれが、98%くらいを表現して、受け取り方の余地が2%くらいしか無いものが万人受けする作品なんでしょうね。
逆に30%くらいしか表現しなくて、残りの70%を投げたりすると、その補完が出来る人にしかウケないのでコアなファンが付くという感じでしょうか。
そしてごく稀に現れる、年齢性別問わずウケる名作は「100%が決まっていない」という共通点があるように思います。
受け手側の解釈や想像で補完されるのが何%であっても、それで完成したと思わせる作品なのです。
10%しか補完できない人には、元々90%の表現だったように受け取られる。
60%も補完できる人には、40%しか表現していないと思われる。
そんな作品が、名作なんでしょうね。
という私の理論は、あまり共感を得られません。
誰に話しても「う、うん」と微妙な返事しか返ってきません。
なんでだろうと考えるのですが、いつも答えに辿り着く前に諦めてしまいます。
そもそも受け手側が物語を補完するという考え自体があまり納得されないようです。
あまりに自然にやっているから自覚が無いだけなんだと思うんですけどね。
例えば
1.「川岸の桜の木は見頃を迎えている」
という文字列を読んだとき、思い描く景色がありますよね。
2.「川の両側に隙間なく並んでいる満開のソメイヨシノ」
という表現にしたら、景色は変わりましたか?
3.「川面より幾分か小高くなっている土手には桜が立ち並び、どの木もはちきれんばかりの満開となっている」
想像する風景の、解釈の幅を少しずつ狭めてみたのですがいかがですか?
1~3の文章から想像した桜の図が、それぞれに違ったり、全部同じ景色を想像したり、人によって様々だと思います。
例えば2の表現で想像した景色が一番美しいと思った人にとって、1は表現不足ですし、3は過剰表現と感じることでしょう。
この説明でちょっとは伝わるかな。
もしかしたら、同じ作品を数年ごとに何度も読むことが多いというのも、この考え方を作っている原因なのかも知れません。
読み返すたびに違う解釈ができたり、新しい発見があったりするのは、私の補完力が変化しているからだと思っています。
たぶん料理なんかにも共通点があるかもしれないですね。
食べ物の味って、食べるときの体調や腹具合なんかで全く変わりますから。
料理もきっと、食べる側の準備とか期待度とかに補完されて完成するんだと思います。
そう考えると、日常会話も含めた情報伝達の全てが同様だと思えてきます。
つまり、どんな作品であったとしても、受け取る側の心境や知識、感情の変化によって完成度が変わることもある、ということですね。
だから軽々しく「あの映画は面白くない」とか「あの漫画はイマイチ」とか言う人は、“今の自分の受け取りスキルからすると”という前置きが本当は付いていることを忘れずにいて欲しいと思います。