『かなり』

干支に入れてよ猫

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お部屋ポカポカ

どうも、坂津です。

もう11月も半ばですが、最近ようやく肌寒さを感じることが多くなりました。

やっと晩秋を実感できると言うものです。

ただ、暖かいとか寒いというのは個人の感覚であり、そこには明確な差が生じます。

真冬の気温であれば皆一様に寒いでしょうし、真夏の猛暑なら全員暑いのですが、今くらいの中間気温のときが最もその差を大きく感じるタイミングです。

息子の爆誕まで秒読みとなった今、我々夫婦は実家で絶賛待機中なのですが・・・。

 

まず生活時間が合わないのは最初から覚悟していました。

私の帰宅が21時以降なのに対し、17時には夕食を済ませて18時には入浴も済ませて19時には就寝しちゃう両親。

私の出勤が起床が6時なのに対し、5時にはもう起きてて朝食をとり新聞を読みニュースを観ているような両親。

しかし、体感温度の差までは計算外でした。

実家には円柱型の石油ストーブがあるのですが、まさかのフル稼働とは。 

石油ストーブで加熱された空気が充満した室内で、更に両親は何枚もの重ね着をしています。

何の我慢大会なのかと思ってしまうほどですが、当人たちはそれでようやく適温だと言います。

しかし私にとっては暑い温度なので、当然ながら薄着になります。

すると「寒いから靴下をはきなさい」「冷えるから上着を着なさい」と言われるわけです。

親にとって子供はいつまでも子供と言いますが、さすがに四十路目前のおっさんは自分で適温管理ができますからね。

 

母「ちょっと佳奈ちゃん靴下をはきなさい」

私「いや、この部屋暑いから脱いでんだよ」

母「ほらほらほらこの上着を羽織んなさい」

私「あの、この部屋が暑いから着てないの」

母「しょうが湯を入れるから飲みなさいね」

私「ちょ、冷たい炭酸水を開けたばっかり」

 

とは言え、悪気どころか私の為を思ってしてくれていることです。

両親の耐低温能力よりも、私の耐高温能力の方が高性能であることも言うまでもありません。

私は無下に拒否することをやめ、提案を受け入れることにしました。

その結果。

 

妻「ねぇ旦那コレ、うわっ!どしたの!?」

私「灼熱の部屋で鍋焼きうどんを食ったよ」

妻「今の季節に屋内でそんだけ汗だくとか」

私「まるでサウナに入ったような爽快感!」

妻「着衣型のサウナとか初めて見たけどな」

 

とりあえず、なるべく早く本格的な冬になって欲しいと願う私です。

床屋にて

どうも、坂津です。

生まれて初めて『鼻毛ワックス』ってやつを体験しました。

ブラジリアンワックスとか言うんですよね?

鼻腔の視認範囲に自生する毛という毛を根こそぎ一網打尽にする驚異のアレです。

一昔前に流行ったと思うのですが、なかなかチャレンジする機会に恵まれず今まで生きてきました。

しかし、新居に引っ越してから2ヶ月が経過し、頭髪が伸び放題になってしまったため近所の床屋さんを訪ねたところ、メニューの中に『鼻毛ワックス』を発見したのです。

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この出会いを大切にしたいと考えた私は、多少の恐怖心に勝る好奇心だけを頼りに発注です。

 

床屋「お客さん初めてですね?」

坂津「最近引っ越してきました」

床屋「今日はどうされますか?」

最近「カットと鼻毛ワックスを」

 

理髪店というところはお互いの信頼関係が必須となります。

客側としては、切れ味抜群の刃物を持つ見ず知らずの初対面の相手に対し、無抵抗で顔面を晒すことになります。

またお店側も、完全無防備状態で身も心も解放している客の信頼を裏切るわけにはいきません。

そこには目に見えない確かな絆が生まれるのです。

カット、シャンプー、顔剃りまでが終了し、私は理容師さんの技術にとても満足していました。

 

そしていよいよ待望の鼻毛討伐タイムです。

 

床屋「ご自分でやられますか?」

坂津「そういうものなんです?」

床屋「大抵の方はそうですねぇ」

 

理容師さんが言う「でもたまに怖がるお客さんも居て、そういうときは『人思いにやってくれ』と言われるんでやりますけど」というセリフに、なぜか対抗心を燃やしてしまう私。

 

坂津「こ、怖いわけないですよ」

床屋「では自身でお願いします」

坂津「こ、こんなの朝飯前です」

 

すると理容師さんは慣れた手つきで私の鼻腔周囲に綿棒でオイルを塗布し、その後なにやらプラスティックに棒の先にピーナツジャムが乗ったような物を持ってきました。

 

床屋「じゃあ入れますからね~」

坂津「セイ!オナシャーッス!」

 

油断していると「熱ッ!」と声が出てしまいそうな、でも落ち着いてみればそこまで熱くないピーナツジャム。

鏡に映るのは、片方の鼻から白いプラスティック棒を生やした奇妙な自画像。

1分も経ってないと思うんですが、理容師さんから「どうぞ、抜いてください」と言われました。

意を決した私はプラスティックに手を掛け、そして息を吸い込みます。

 

坂津「キエエェェェェーッッ!」

坂津「ッッシャオラァァー!!」

 

気合の掛け声と共に引き抜いた棒の先のピーナツジャムには、驚くほど大量の鼻毛たちが突き刺さっていました。

さすがの私もここに写真を掲載することを躊躇ってしまうほどのグロテスクさ。

 

坂津「これはバックベアード…」

床屋「え?何ですって?ベア?」

坂津「いえなんでもありません」

床屋「では反対側もいきましょ」

 

冷静になってみると、痛みはまるでありませんでした。

爽快感しかありません。

もう怖い物などなにもありません。

しかし私はこのとき、重大なことを失念していたのです。

 

手際良く反対側の鼻毛抜去を用意した理容師さんの合図で、私は思い切り引き抜きました。

そこには先程と変わらない光景が。

禍々まがまがしい触手を全方位に展開するバックベアードを眺めつつ二度目の爽快感に浸っていた私は、次の瞬間絶望の淵に立つのです。

 

坂津「隊長ぉぉぉぉぉーッ!!」

床屋「え?何?どうしました?」

 

私の右鼻腔には、私だけが勝手に『隊長』と呼称する、太く逞しい鼻毛が存在するのです。

実は、およそ5か月ほど前に殉職した隊長。

上記でもご報告させて頂いた件です。

あの隊長が、先月あたりからまたひょっこり顔をのぞかせてくれるようになっていたのです。

 

その隊長が、明らかにその隊長だと判別できる一際立派な剛鼻毛が、眼前の触手の中に紛れていたのです。

 

鼻毛ワックスはその仕様上、鼻腔の奥までは入らないようになっています。

あくまでも『見える範囲』の無駄毛を除去するためのツールです。

私は隊長に対し、山奥から街に降りてくる熊のような印象を持っていました。

鼻の奥底から外界にその先端を進出させる超ロング鼻毛なのだと。

それが、まさかこんなご近所に在住だったなんて・・・。

私はよく分からない悲しみに包まれました。

心の中ではなぜか「ゴン、お前だったのか・・・」というセリフがリフレインします。

 

床屋「あの、痛かったですか?」

坂津「鼻は全然痛くありません」

床屋「別の場所が痛いですか?」

坂津「すこし・・・心が・・・」

 

鼻毛に名前など付けるものではありませんね。

脳内アウトプット

どうも、坂津です。

この記事は私の考えをまとめるため、日ごろからなんとなく漠然と思っていることを文字列として表現してみるという試みのために書かれています。

特に意味はありませんので悪しからずご了承ください。

 

私たち人間は名付けるという行為にとても重要な意味、意義を感じます。

名前は大切なものであり、不可欠なものであると考えています。

それは人の名前であっても物の名前であっても同様です。

名前を重要視してしまうというこの人間が持つ根源的な性質は、私たちの自我の貧弱さ故なのではないかと、私は考えています。

もちろん他者との意思疎通を行うにあたり、共通認識を得るための道具として名前を利用することはあります。

仮に名前という概念が存在しないと考えた場合、私たちは途端に意味のある会話ができなくなってしまうでしょう。

しかし、この名前が無い世界について考えたとき、その状況に窮さない存在というものを想像することはできます。

当然ですが動植物は何も変わらず在り続けるでしょう。

名前という概念は人間だけが持つものですから、それが無くなって影響が出るのは人間だけです。

名詞を一切使わないで思考することができるか試してみましたが、不可能でした。

ただ、そんな世界でも特に困ること無く生きていける人間という存在を想像してみたとき、その人物には『圧倒的自我』が必要だと考えたのです。

これはフロイトが言う超自我とは全く別の物です。

超自我とは、簡単に言えば自身を抑制するための道徳規範のようなものであり、人間が複数個体で社会を形成し、共生するための機能として働きます。

私が『圧倒的自我』と呼ぶのは、文字通り他を圧倒するほどの自我という意味です。

自分が自分で在りさえすればそれで良しとするようなもので、他者への興味、関心が極めて薄い存在が持つ自我のことです。

言ってしまえば範馬勇次郎やミギーなどが近いように思います。

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彼らに共通する特徴として、個としての強さが挙げられます。

それも他を遥かに凌駕する突出した強さです。

生物として生命力が高いことは当然として、戦闘力や判断力、特に自身が生き抜くための能力に関しては一際です。

彼らが持つ自我であれば、例え名前という概念が存在しない世界であっても生存に耐え得るのではないかと思えるのです。

圧倒的自我を持つから生命体として強いのか、強いからこそ圧倒的自我を持てるのか、それは分かりません。

鶏と卵の論争と同じです。

ただひとつ言えるのは、名前に重きを置くという文化、価値観は、私たち人間が圧倒的自我を持たなかったからこそ生まれたものだと言うことです。

比較すべき他者、目指すべき他者、支配すべき他者などなど、他者を通してしか自己を確立できないような弱弱しい自我の支柱として、名前は存在します。

朝顔の鉢に刺す棒のごとき存在、それが名前なのです。

 

だから何だって感じなのですが、なんだかこの考え方の先に、何か新しい発見があるような気がしてならないのです。

もう何年もずっとこんな風に考えを巡らせつつ、いつもここで思考が行き詰まるんですよね。

いつかブレイクスルーできる日が来るのでしょうか。