『かなり』

干支に入れてよ猫

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「おかどちがい」を「岡戸違い」だと思っていた。

どうも、坂津です。

高木渉さんが虹村億泰すぎてもう。

これほどまでに違和感の無いキャスティングも珍しいと思う。

もちろん私的には、ですが。

いや、初めて聞いたとき(オールスターバトル)から億泰は億泰でしたよ。

今回の4部で改めて思い知らされたんです。

真田丸で億泰じゃない高木渉さんを見ましたが、まるで億泰じゃないですね。

当たり前なんですが、不思議な感じがしました。

 

 

 

見る人、読む人、聞く人、味わう人などなど、それぞれに努力が必要なのが「芸術」だと思います。

芸術家のみなさんは、自分が表現したいことのごく一部だけを絵や文章、楽曲、料理などで表現します。

提供する側は限られた伝達方法の中で、更に削れる部分を探して削り磨きを繰り返してアウトプットする情報を作り上げます。

その情報とは、もちろん絵や文章、楽曲、料理などの芸術全般のことです。

そして享受する側は、結果としてアウトプットされた断片的な情報(芸術作品)と、これまでの人生で培ってきた自分の知識や感性を混ぜ合わせながら「勝手に」その情報を完成へと導いていきます。自分の中で。

 

なので、それを受け取る対象が不在の場合、芸術は芸術として完成しないと思います。

 

そして仮に、受け取る対象が作品に対して付加させるべき自らの何物をも持っていない場合も、然りでしょう。

 

好きなアーティストのコンサート、話題の芸人のライブ、贔屓の役者の公演などを想像してもらえると分かりやすいかもしれないですね。

 

観客がゼロ、もしくは一切の興味を示さない客のみ、これではイベントは完成しませんね。

 

なので、何かを創作、創造、制作、製作、作成、作製するという行為に於いて、必ず「相手に解釈を委ねる部分」が発生します。

 

憲法、法律ですらそうですよね。

 

 

そもそも「万人に共通の解釈をもたらす表現」なんて無いでしょ。

 

 

 

 

なのになぜ社内資料ごときで「もっと読む人に分かりやすく」などというお門違いな指摘を受けねばならんのか!