『かなり』

干支に入れてよ猫

【スポンサーリンク】

文字数制限を設けてみる

どうも、坂津です。

 

私たちは様々なシーンで、文字を連ねて文章を記述する場面に遭遇します。

業務上必要であったり、プライベートな趣味として書いたりするでしょう。

時には既定の文字数に収めるため、可能な限り短い文章でまとめてみたり。

時には文章量にボリュームが必要で、過剰な表現をたくさん盛ってみたり。

まるで粘土細工のように盛ったり削ったりしながら文章は紡がれています。

 

私のこのブログでは、1記事における文字数の上限を設けてはおりません。

また『1記事あたり最低何文字以上』というような定めも特にありません。

では私はこの記事において、何のために文字を盛ったり削ったりするのか。

お気付きの方もおられましょうが、それは文字数を揃えるためであります。

 

何の意味があるのか?どんな効果があるのか?と尋ねる人もあるでしょう。

私は笑顔で「何の意味も、何の効果も無い。ただの趣味です」と答えます。

 

本来1行の文字数を気にするのなら、表示画面を意識するのが一般的です。

例えばスマホでの閲覧を視野に入れる場合20文字あたりが妥当でしょう。

しかしこの1行の文字数は34文字で、スマホだと改行されてしまいます。

しかもその34に特に意味は無く、たまたま1行目がそうだったからです。

 

こんな無駄なことのために文字を盛って削ってまた盛ってと繰り返します。

本来なら何の制約も無いところに無理やり自分で制約を設けているのです。

 

本当に何の意味も無い無駄な自分ルールであり誰にも何の得もありません。

 

もし仮に強引に何か意味を見出すとしたらそれは『自己満足』でしょうか。

『綺麗に揃った』というどうでも良い達成感をちょっぴり覚えるだけです。

読み手が読みやすいわけでも無く世間様に有用な情報というわけでも無い。

ただひたすら文末の読点が縦に揃っていることだけを目指したナンセンス。

しかも揃っているように見えるのはパソコンモニタで見たときだけですし。

 

さて、この1行文字数制限を行うにあたり実は色々と調べ物をしています。

『1文字足りない』とか『2文字削りたい』というような場面で調べます。

それは『類義語』と呼ばれる、異なった表現でも同じ意味を持つ言葉です。

 

例えば『面白い』は3文字で、『愉快』と言い換えれば2文字になります。

使う場面によっては『興味深い』や『ユーモアのある』とも表現できます。

このような類義語をその都度調べ少しずつ自分の中にストックしています。

言葉遊びを繰り返すたび、ほんのちょっぴり語彙が蓄積されていくのです。

 

さっきはこの文字数制限を『意味の無い無駄な自分ルール』と呼びました。

しかしもしかしたら存外そこまで意味の無いことでも無いかもしれません。

 

この制約は大リーグボール養成ギプスのように文章力を上げる効果がある。

ピッコロさんの超重量肩パッドや亀仙流の修行の甲羅のような効果がある。

いや、これは言い過ぎかもしれませんが、確かに修行にはなっているかも。

そもそも日本には俳句や短歌などの定型律で意味を伝える文化があります。

限られた範囲内で言いたいことを表現するには、相応のスキルが必要です。

それを養うためにこんな文章の書き方が在っても、おかしくは無いのかも。

だからと言ってこんな馬鹿げた文章の書き方を推奨したりしませんけどね。

 

でも、どこかの誰かが同じような記事を書いていたら、それは面白いかも。

此の親にして此の子あり

どうも、坂津です。

今週のお題「おかあさん」

もう何度もこのブログに登場しているので常連さんにはお馴染の私の母ですが、一言で表現するならば『変わり者』です。

考え方というか発想というか、いつも『なぜそんなことを思ったのか』と不思議になるような言動をこれでもかと振り撒くのです。

そして近頃になってしみじみと『ああ、私はずいぶん母の影響を受けているな』と思うのです。

 

私が小学生の夏休み。

 

母「佳奈ちゃん、自由研究なにするか決めた?」

私「ジュース凍らせてアイスにして食べようか」

母「それは自由研究になるの?何の研究なの?」

私「ジュースの種類ごとに凍る時間の違いとか」

母「単に食べたいだけじゃないと誓えますか?」

私「単に食べたいだけじゃいけないんですか?」

母「母ちゃんに良い考えがあるので聞きなさい」

 

そう言う母に連れられて、家のすぐ前にある田んぼへ行きました。

青々とした稲が私の膝より少し上くらいに伸びており、静かに風に揺れていました。

 

母「佳奈ちゃんはウキクサを知っていますか?」

私「知らないけど今田んぼから取ったそれだね」

母「その通りッ!この緑のやつがウキクサだ!」

f:id:sakatsu_kana:20180515082610j:plain

ウキクサ亜科 - Wikipedia

 

ウキクサという名前なんて知りませんでしたが、存在は知っていました。

流れの淀んだ用水路やため池、田んぼの水面がいつの間にかコイツでびっしり緑色になるやつです。

わざわざ近寄って見たことは無かったので葉の1枚がどんな形状なのかなんて知る由も無かったのですが、母は小さなウキクサの小さな葉を2枚切り取り、持って帰りました。

 

私「母ちゃん、そのウキクサどうするつもり?」

母「コップの中で培養して増殖させようと思う」

私「え?コップの中で増えるの?ウキクサが?」

母「水入れて浮かべて日光に当てれば増えるよ」

私「なにそれマジか!すげぇ面白そうじゃん!」

母「増えてく様子を毎日絵日記にすれば良いよ」

 

そして、より自由研究っぽさを増強するためにコップを二つ用意し、水道水と田んぼの水でウキクサの増え方を比較するという体制に、小学生だった私は目を輝かせて母を尊敬したものです。

詳しい日数は覚えていませんが、ウキクサは着実に増殖していきました。

f:id:sakatsu_kana:20180515084542j:plain

確かこんな感じで増えたと記憶しています。

まだ夏休みが半分も終わっていなかったハズなので、割と早い段階、数日でこんな増え方をしたように思います。

 

私「ちっちゃい葉っぱが少し大きくなってる!」

母「水と光だけで増えていく植物の恐ろしさよ」

私「でも水道水と田んぼの水で違いは無いねぇ」

母「そうだね。ほとんど同じように増えてるね」

私「でも田んぼの水は濁って水道のは透明だね」

母「いつまでも透明というのも恐ろしいことよ」

 

このあたりから、ウキクサの増殖が止まりました。

毎朝起きて一番にコップの中のウキクサを確認する私のモチベーションは『昨日と違う』形状を見ることでしたが増殖することは無く、それどころか葉の色が茶色がかってきました。

 

私「なんか茶色くなってきた気がするんだけど」

母「水の色も変わってきたし、そろそろ潮時か」

私「どういうこと?コップ持ってどうするの?」

母「捨てるのっ!(庭にウキクサをバシャ!)」

私「うわあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

母「いい?あのウキクサは死んだの。狭いコップの中ではあそこまで増えるのが限界だったの。田んぼの水だろうが水道水だろうが、流れの止まった水、つまり『死んだ水』の中ではウキクサは生きられないのよッ!!」

 

私の自由研究の結果は『ウキクサにとって重要なのは水道水か田んぼの水かではなく、それが流れているかどうかだった』ということになりました。

当時はただただ衝撃を受けただけだったのですが、中学生になったある日、ふとこのことを思い出して母に尋ねたことがあります。

 

私「小学生の自由研究で、ウキクサ覚えてる?」

母「ああ、あれ。覚えてるけど、どうしたの?」

私「母ちゃんは、最初から結果を知ってたの?」

母「いや。観察日記があれば楽だと思っただけ」

私「は?楽?何が楽なの?それどーゆーこと?」

母「夏休みの子供が朝自分で起きるという奇跡」

私「はっ・・・ま、まさかそのためだけに!?」

母「おかげでラジオ体操にも行けたでしょう?」

私「ぐぬぬ・・・」

 

確かにウキクサが気になっていた私は自ら進んで朝早くに起床し、ウキクサの形状を描き、そしてラジオ体操に行くというルーティーンをこなしていました。

そんな生活が半分続いた夏休みはそのまま惰性で早起き習慣を継続したまま過ごすことになりました。

全ては母の計画通りだったのかとショックを受けそうになった私ですが、しかしすぐにこのデマカセを看破しました。

だって本当にその通りなら途中でウキクサが死ぬ前に水替えを提案して夏休みの最後まで観察を続けさせるべきです。

 

私「以上の理由から母ちゃんの発言は虚偽だ!」

母「甘いね。夏休みの後半を思い出してごらん」

私「た、確かあのあとはじいちゃん家に行った」

母「そう!ウキクサが気になるから行きたくないとか言われたら面倒だからナイスなタイミングで枯れてくれたウキクサに感謝しか無かったわ!夏休みに子供が田舎に行くということ、それはつまり面倒を見てくれる大人が増えるということ!そしてそれは母ちゃんが楽をできるというコトなのよッ!!!」

私「ぐぬぬ・・・」

 

現在でも母に「そういえばあのとき」みたいな過去話をすると、意外な真相が聞けて面白かったりします。

こんな話が好き

どうも、坂津です。

世にも奇妙な物語2018春の特別編を観てちょっぴりがっかりした私は「じゃあ結局どんなものを望んでいるのか」と自問自答してみました。

そして『こんな感じ』というモノに辿り着きました。

『そんなこと絶対にあり得ない』と潜在的に信じているけど現実的に起こってもおかしくないような、戦慄の中に含蓄があるような、SFと呼ぶには現実味が強く、ホラーと呼ぶほど恐怖に特化していない。

こういうジャンルって何と呼ばれるんでしょうね。

ショートショートSFなんてのが、もしかしたら当てはまるんでしょうか。

 

とは言えこんな説明じゃ伝わらないと思いますので、実際にイメージしやすい例題を書いてみましょう。

 

 

【1】 

最近は企業の吸収合併、M&A、業務資本提携などにより、大手はより強く巨大になっていますよね。

どこに行っても同じ店があり、同じ商品が買える。

違う店だと思ってたのに並んでる商品が同じだったりする。

そんなことが日常茶飯事になっています。

 

【2】

昨今の市場において最も大きな課題は、輸送コストです。

それこそSF的な『物質転送装置』などという夢物語が現実化しない限り、物理的な距離を解消することはできません。

そこで企業各社が考えるのは『如何にして一度に大量に効率的に運ぶか』です。

そのため商品、製品のみならず、農産物にまで規格サイズが適用され、隙間無くきっちりぴったり箱詰めできることが最良という考えが一般化しています。

 

【3】

私たち人間は食事をし、その食糧を消化吸収してエネルギーや体組成とし、生命活動を維持しています。

つまり私たちの肉体は、食べたものを元に構築されているのです。

昔の日本人は小さかったのに、食の欧米化が進むにつれどんどん大きくなっていったのはよく聞く話ですよね。

 

【4】

現代は個性の時代です。

多様性を認め、個人ごとに人それぞれの主義主張があることを容認しています。

一方で、社会や世間と呼ばれるコミュニティを形成して生きる私たちは『個性vs社会』という図式の問題にしばしば直面します。

これはどちらか一方に寄り過ぎると、もう一方は完全に機能しなくなるという性質のもので、個性と社会が両立することはありません。

合理的に考えるならばどちらかを採り、どちらかを捨てることが良いのかもしれませんが、中間地点でバランスを取っているのが現状です。

 

【5】

会社の統合が進み、やがてひとつの巨大企業が誕生します。

あらゆる業種業態に手を伸ばし、原材料から精製、加工、企画、製品化、物流、販売など市場に存在する全てのポイントを網羅した企業です。

食事で言えば粉ミルクや離乳食から介護食までその企業が提供している。

当然ながら街に居並ぶ飲食店も軒並みその企業のもの。

走る車も、その燃料も、走行している道路そのものも、その企業が作っている。

住んでいる家もその建築材料も、建築機械も、全てその企業のもの。

日本だけでなく世界中で、その企業が提供する快適な暮らしが享受できるようになる。

 

【6】

やがて地球上すべての人類は同じ環境、同じ食事、同じ教育を受けるのが当たり前となる。

多様性の時代は終焉を迎え、皆が『同じである』ことに喜びを感じる世の中になる。

国籍、人種、思想はパン生地のように混ぜて伸ばして均等分配され、人々の同一化は加速して行く。

いつしか店頭に並ぶ衣類にサイズ表記は無くなり、代わりに『○歳 男性用』などという年齢と性別のみが記載されるようになる。

同じ年齢、同じ性別であれば誰もが同じサイズだから何の問題も無い。

 

【7】

個性が完全に排除された人類は、無駄なスペースの無い合理的で効率的な積載の宇宙船に乗り込む。

そして異星に出荷される。

 

 

この書き方だとたぶん早くて【3】、ないし【4】か【5】あたりではオチが読めてしまうと思います。

その辺を上手に視聴者をミスリードしながら最後に『うっわマジか!こう来たかぁー!』と思わせるような感じの物語が好きです。

 

普通にホラーも好きなんですけどね。

心霊物や怪物物、スプラッターなのも好きですが、ただそーゆーのは『それを望んで』観たいのです。

上記のような『私の好きなやつ』だと思って観始めたのに、急に『なぜか部屋から出られない』とか『理由は分からないけど解除できない』みたいな展開になると興醒めしてしまいます。

単に私がワガママってだけなんでしょうけどね。