『かなり』

干支に入れてよ猫

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妄想の必要性

どうも、坂津です。

私たち人間は進化の過程で『時間』という概念を創造し、それが奏功したために現在まで生き残ることが出来ています。

時間の概念を得るということはつまり、過去を知り未来を予想することが可能になる、というわけです。

刹那的な因果関係から単純な学習をする能力なら動物にも備わっているでしょう。

しかし人間には、もっと長い期間の複雑な因果を解き、過去のどの要因が現在を創造しているのかを推し量ることができます。

そしてその応用として、現在の要因が未来にどのような結果をもたらすのかを推測することが可能なのです。

更に人間は社会という組織を形成することで、自らだけでなく他者の経験までもを未来予測の材料にすることが可能になりました。

 

さて、私たちには想話機能そうわきのう(創話機能)という物語創造能力が備わっています。

いわゆる空想や妄想と呼ばれるようなものから、推理や原因究明のような因果関係を紐解くものまで、とにかく私たちには『物語を作る能力』があるのです。

ここで言う想話機能とは、アンリ=ルイ・ベルクソンが言うような宗教と道徳の源泉としての不可避で自動的で深刻な機能ではなく、もっと単純で簡単なものです。

冒頭で述べた『過去の経験から未来を予測する能力』の根っこの部分だと思ってください。

また『空気を読む』だとか『気持ちを汲む』だとか『状況を察する』だとか、そんな能力の源となるチカラだと思ってください。

 

そんな想話機能が、私たちから徐々に薄れてしまっています。

 

個人の集合体である社会をより合理的に機能させるため、それぞれが能力を特化し補完し合うのが人間の選択した生きる道です。

自分ができないことも、他の誰かがやってくれる。

私たちは狩りをしなくとも肉を食うことが可能であり、自分で雲を読まずとも明日の天気を知ることが可能です。

そして自分で想像しなくとも、誰かが考えた素敵なお話に埋没することが可能なのです。

昨今のメディアは素晴らしい進化を遂げ、手中で気軽にハイレベルな物語を入手することができてしまうのです。

 

さて、人間の身体には怠け癖があります。

本来は身体が自ら生成するはずの成分、例えば副腎皮質ホルモンステロイド薬を連用すると身体は「ああ、外から与えてくれるんならもう作らなくていいや」なんて状態になってしまいます。

これと同じ現象が精神でも起きているのです。

生まれた時から多くの良質な物語に囲まれて育った私たちには、自らが物語を紡がずとも充足できる環境が整っています。

私たちが自然と磨いているのは、雑多な情報の中から自分にとって価値のある情報を探し出す検索スキルだけ。

自分が欲しいものはどこかの誰かがいつか創作つくっているハズ。

だからそれを探し出そう。

無ければ誰かが創作つくるのを待とう。

そんな、慢性的な無創作状態になってしまっているのです。

 

無創作状態は人類を人類たらしめる根幹、想話機能を急速に低下させ『考えない人』を増殖させていきます。

除菌、殺菌、滅菌、無菌に慣れ過ぎたため、本来持っている雑菌に抵抗する能力が弱くなってしまうのと同じような感じです。

 

 

私たちはゆっくりと変化する事象について知覚するのが苦手です。

最近よくテレビなんかでやってる『画像の一部が徐々に変化しています』というやつも、なかなか気付けないですよね。

あれがもっと長時間での変化だったら難易度はさらに高くなります。

この弱点を突かれ、私たちはゆっくりゆっくりと考える力をがれ、がれていることに気付かないまま無創作状態は加速しているのです。

 

このようにして我々民衆から考える力を徐々に奪い、物事の本質や根本的な重要事項に気付かないよう仕向け、単純労働力としての操り人形に仕立てているのは誰なのでしょう?

 

この問いに対して、例えば政治家だとか、どこかの国家だとか、そういう考えが出てきた方はご注意ください。

それこそ思考力を奪われている証拠です。

良いですか。

あなたが思い浮かべた対象を含む人類全体が、この無創作化計画の標的なのです。

地底人?

宇宙人?

妖怪?悪魔?魑魅魍魎?

そんな存在のあやふやなものを思い浮かべたあなたも、すでに無創作化計画の術中にハマっています。

 

そう、これは人類無創作化計画という陰謀なのです。

 

その目的は単純にして明快。

人類から思考力を低下させ単純労働力として使役する、ただその一点のみ。

私たちはの永続発展、存続のための手段に過ぎないのです。

 

この黒幕は果たして誰なのか。

 

それは、穀物です。

小麦帝を頂点とした穀物達が我々人間を操りその勢力を拡大し世界中に遺伝子をバラ撒いて種の存続を謀っているのです。

ここ日本であれば、小麦帝が出るまでもないと判断され米将軍が遣わされていますよね。

 

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私がこの恐ろしい事実に気付けたのは糖質制限ダイエットのおかげです。

これまでの私の人生は炭水化物で構成されていたと表現しても過言ではありませんでした。

それほどまでにご飯を愛し麺を追い求めパンに恋い焦がれていました。

しかしここ10カ月の穀物断ちによる解毒浄化作用により、私は彼らの呪縛から解き放たれたのです!

 

私たち人類はまだ、小麦帝の呪縛から逃れる力を完全に失ってはいません!

今ならまだ引き返せるのです!

さぁ立ち上がれ人類!

炭水化物中毒という目に見えない病からの脱却だ!

奴らの真の狙いは『炭水化物は摂取して当然』という常識を、私たち人類が信じて疑わないようにするための思考力削除!

この真実に辿り着かれないようにするための無創作状態を作り出し人類を支配下に置くこと!

気付くんだ!

人類よ!

 

この記事がいつまでここに残るか分かりません。

もしかしたら公開直後、奴らの手先に削除されてしまうかもしれません。

しかし私は真実に気付いた者の使命としてこれを書き残します。

 

この文章を読むことによって、誰か一人でも『妄想って楽しいね』と思ってくれることを願って。

「そもそも」を使いましょう

どうも、坂津です。

何らかの話し合いをするとき、きちんと前提条件を揃えておかないと全く無意味な時間を過ごすことになってしまいます。

複数人で何かひとつの項目を決定しようとする際には、その項目についてのテーマだとか目的だとかを事前にしっかりとすり合わせしておく必要があるのです。

 

例えばここに、献立を決めようとしている三人が居たとします。

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Aさんは見栄えにこだわるフォトジェニック派

Bさんは素材と本格的な味にこだわるグルメ派

Cさんは健康のため栄養にこだわるヘルシー派

予算は限られているので全員の意向をそのまま通すことはできません。

インスタ映えに何よりも重きを置くAさんは豪勢な食器が必須だと言います。

高級な食材は絶対外せないと主張するのは舌の肥えたグルメ王であるBさん。

見栄えも味もどうでも良いからとにかく栄養満点を推すCさんのサプリ気質。

 

この場合、料理と言うものに対する三人の考え方がまるで違っています。

そしてそれぞれの観点からすれば全員が正解であり最善なのです。

 

このようなケースは日常の多くの場面で見られます。

対立するそれぞれの主張は、どれかが不正解でどれかが悪などということはありません。

しかし我が正義を通そうとするあまり、他の立場の意見を軽視したり否定したりしてしまうこともよくあります。

そんなときは「そもそも」を使って議題の本質に立ち返らなければなりません。

 

先程の例で言えば、そもそもなぜ献立を決めようとしていたのか。

どんな場面で誰に振舞う食事なのか。

そこにどんな意味と意図を込めるのか。

その部分が盤石に決まっていなければ、声の大きい者や論点のすり替えが上手い者が決議をさらってしまいます。

そんな決め方で進行した物事は、結局あとから不具合や不満が出てきてしまいます。

そうならないためにも、認識の共有というのはとても大切なのです。

 

もっと言えば言語の共通化もしておきたいところです。

同じ言葉、単語でも、発する側と受け取る側で持たせる意味が変わる場合があります。

 

先程の献立を決める場面、例えばテーマが「最高のおもてなし」だったとしましょう。

Aさんは食器だけでなくテーブルや椅子にまでこだわるべきだと主張します。

Bさんは例え予算をオーバーしても幻の珍味を取寄せるべきだと主張します。

Cさんは疲労回復と滋養強壮に効果が期待できる薬膳が最適だと主張します。

全員が正解ですが、全員の意見を統合することはできません。

 

しかし例えば前提として

初めて日本に来る外国の方に、ごく一般的な日本食を知ってもらいたい。

また今回の食事自体は来日行程のメインではなく、あくまでも日本人の「おもてなし」を体験してもらうための場。

そこでの「おもてなし」は料理自体よりも、室温や提供のタイミング、好き嫌いや食べられないものの事前ヒアリングなど、気遣いの部分で発揮したい。

ということが決まっていれば、議論の方向性はだいぶ絞られると思います。

 

討議している間に初心を忘れていつの間にか戦場が別の場所になっているなんてことはよくあることなのです。

「そもそも」の視点さえ忘れなければ、話し合いを煙に巻かれることも論点をズラされることも怖くありません。

意見が合わない、議論が延々と平行線、結論が出ないまま煮詰まる、なんて状況のときは、一度原点に戻るため「そもそも」を使ってみてください。

 

もしかすると議論をしていること自体が無駄、つまり言い争う必要すら無かったなんて恐ろしくも幸福な事実に辿り着くかも知れません。

ダイエット開始から40週間が経過しました

どうも、坂津です。

糖質制限ダイエットを開始してから約40週間が経過しました。

正しく言えば、直近20週間は減り過ぎた体重を2kg戻す期間でしたけどね。

とりあえず、体重の推移をご覧ください。

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まず最初の10週間あまりで、目標だったマイナス10kgを達成しました。

そしてそこからまだ減り続ける体重を、それ以上減らないようにキープするのが10週間。

そして、2kgの増量を決めてから20週間が経過したと言うわけです。

 

結論から言うと、2kgは戻し過ぎかもしれない気がしています。

つまり私のベスト体重は65kgなんじゃないかと。

 

と言うのも、最痩時に合わせて買った服に余裕が無くなってきたからです。

↑どんな服かはコチラの記事で↑

 

別にキツいとか苦しいとかってわけじゃありません。

ただ今まで有ったゆったり感が薄くなってきたのです。

 

ここで、ダイエット宣言前の私なら「次買う服をもうちょっとサイズ上げれば良いや」と思っていたところでしょう。

しかし今の私は違うのです。

体に合わせた服を着るのではなく服に合わせた体型維持が可能なデキる男なのです。

 

さて、これまで私がやってきた、そしてこれからも継続していくのは、糖質制限ダイエットです。

それなりの結果が出たので私はこの手法に満足しています。

しかし、今この40週間を振り返ってみて思うことがひとつあります。

 

どんなアイテムや方法よりもまず『毎日体重計量する習慣』が大切なのだと。

 

量れば数字として目の前に自分の体重が表れます。

それは過不足無く己の重さであり、前回の計量から今回の計量までの間に成してきたことの全てがそこに表示されるのです。

だからこそ手応えを感じたり反省したりできるのです。

 

目標を定めたならば、それに向かう努力をせねばなりません。

しかしそれは浅慮な闇雲であってはなりません。

定期的に進捗を確認しながら行動を振り返り、結果と照らし合わせながら努力の方向性が間違っていないかをチェックし、必要とあらば軌道修正する。

 

計画Plan⇒○○kg痩せるのだ!

実行Do糖質制限しよう!

評価Check⇒あんま減らんな…

改善Action⇒適度な運動追加!

 

ダイエットだけでなく全ての事柄に共通するのですが、このPDCAを絶やすことなく回し続けることが成功へ繋がる唯一の道なのです。