どうも、坂津です。
何らかの話し合いをするとき、きちんと前提条件を揃えておかないと全く無意味な時間を過ごすことになってしまいます。
複数人で何かひとつの項目を決定しようとする際には、その項目についてのテーマだとか目的だとかを事前にしっかりとすり合わせしておく必要があるのです。
例えばここに、献立を決めようとしている三人が居たとします。
Aさんは見栄えにこだわるフォトジェニック派
Bさんは素材と本格的な味にこだわるグルメ派
Cさんは健康のため栄養にこだわるヘルシー派
予算は限られているので全員の意向をそのまま通すことはできません。
インスタ映えに何よりも重きを置くAさんは豪勢な食器が必須だと言います。
高級な食材は絶対外せないと主張するのは舌の肥えたグルメ王であるBさん。
見栄えも味もどうでも良いからとにかく栄養満点を推すCさんのサプリ気質。
この場合、料理と言うものに対する三人の考え方がまるで違っています。
そしてそれぞれの観点からすれば全員が正解であり最善なのです。
このようなケースは日常の多くの場面で見られます。
対立するそれぞれの主張は、どれかが不正解でどれかが悪などということはありません。
しかし我が正義を通そうとするあまり、他の立場の意見を軽視したり否定したりしてしまうこともよくあります。
そんなときは「そもそも」を使って議題の本質に立ち返らなければなりません。
先程の例で言えば、そもそもなぜ献立を決めようとしていたのか。
どんな場面で誰に振舞う食事なのか。
そこにどんな意味と意図を込めるのか。
その部分が盤石に決まっていなければ、声の大きい者や論点のすり替えが上手い者が決議を
そんな決め方で進行した物事は、結局あとから不具合や不満が出てきてしまいます。
そうならないためにも、認識の共有というのはとても大切なのです。
もっと言えば言語の共通化もしておきたいところです。
同じ言葉、単語でも、発する側と受け取る側で持たせる意味が変わる場合があります。
先程の献立を決める場面、例えばテーマが「最高のおもてなし」だったとしましょう。
Aさんは食器だけでなくテーブルや椅子にまでこだわるべきだと主張します。
Bさんは例え予算をオーバーしても幻の珍味を取寄せるべきだと主張します。
Cさんは疲労回復と滋養強壮に効果が期待できる薬膳が最適だと主張します。
全員が正解ですが、全員の意見を統合することはできません。
しかし例えば前提として
初めて日本に来る外国の方に、ごく一般的な日本食を知ってもらいたい。
また今回の食事自体は来日行程のメインではなく、あくまでも日本人の「おもてなし」を体験してもらうための場。
そこでの「おもてなし」は料理自体よりも、室温や提供のタイミング、好き嫌いや食べられないものの事前ヒアリングなど、気遣いの部分で発揮したい。
ということが決まっていれば、議論の方向性はだいぶ絞られると思います。
討議している間に初心を忘れていつの間にか戦場が別の場所になっているなんてことはよくあることなのです。
「そもそも」の視点さえ忘れなければ、話し合いを煙に巻かれることも論点をズラされることも怖くありません。
意見が合わない、議論が延々と平行線、結論が出ないまま煮詰まる、なんて状況のときは、一度原点に戻るため「そもそも」を使ってみてください。
もしかすると議論をしていること自体が無駄、つまり言い争う必要すら無かったなんて恐ろしくも幸福な事実に辿り着くかも知れません。