『かなり』

干支に入れてよ猫

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うどん県との交流

どうも、坂津です。

↑これシリーズです。

 

私は割と何度も引っ越しをしているのですが、今回は香川県編です。

香川県と言えば誰しも『讃岐うどん』を連想することと思いますが、それで正解です。

自ら『うどん県』を名乗るほどですもんね。

在住していたときは三食うどんとか当たり前でした。

それでまた美味しい上に安いんですよ。

香川県民には『けつどん(血中うどん濃度)』というステータスがあり、これがゼロになると死んでしまいます(嘘です)。

 

そんな香川県で私が経験した「すまないが、君が何を言っているのか分からない」と思った方言をまとめてみましょう。

 

・「まける」

負ける、では無いんですよ。

イントネーションは「叫ぶ」と同じ抑揚です。

あれは友人宅で家飲みしていて、ペットボトルのウーロン茶を紙コップに注いでいるときでした。

「坂津、まけるなよ」

不意に応援されました。

「ペットボトルになぞ負けるものか!」

咄嗟にこう返した私ですが、どうやら意味が違ったようです。

友人は「こぼすなよ」と言いたかったのです。

「まける」=「こぼす」

ちなみに、コップのふちギリギリまで注ぐときって「ナミナミいっぱい」と言いますが、高知や徳島では「まけまけいっぱい」と言うそうです。

香川の「まける」と同じようなニュアンスを感じます。

 

・「いた」

板、では無いんですよ。

イントネーションは「舌」と同じ抑揚です。

語尾に小さい「ぁ」が入る感じで使われることが多いかも。

「それいた」

文化祭の看板を作っているときに、私の足元にあるカナヅチを指して言われました。

「いや、これはカナヅチだけど。板はこっち」

咄嗟にこう返した私ですが、どうやら意味が違ったようです。

友人は「それちょうだい」と言いたかったのです。

「いた」=「ちょうだい」

ちょうだいは「頂戴」と書きますから、『いただく』の『いた』だけ取ったんですかねぇ。

 

・「まんでがん」

新種の石では無いんですよ。

イントネーションは「玄武岩」と同じ抑揚です。

若い人はあまり使わない感じでした。

コンビニでバイトをしているとき、店長から言われたんです。

「そのカゴまんでがんいた」

語尾の「いた」が「ちょうだい」であることは学習済みでした。

「そのカゴ」が買い物カゴを指していることも分かりました。

買い物カゴをひとつ手渡したところ店長は苦笑い。

「まんでがん」=「全部」

店長は「そのカゴ全部ちょうだい」と言いたかったのでした。

 

このような讃岐弁による数々のミステリーですが、先に岡山県で難解な岡山弁の洗礼を受けていた私はこれを面白い経験であると受け止められるようになっていました。

新しい讃岐弁に触れることは喜びでもあり、とても楽しく過ごしました。

 

さて、そんな讃岐ライフの中で、これは方言では無いのですが、私が体験した最も『デカルチャー』な事件をご紹介します。

 

コンビニバイトのシフトで、誰も年越し勤務をしたがらない中、私が二つ返事で了解したときの話しです。

元々時給の良い深夜シフトにたくさん入りたかった私は、年末年始の深夜シフトに色が付くことを聞くや否や即答で請けました。

どうせそんなタイミングでお客さんなんか気ませんので、私は朝まで漫画を読んでいればそれで良いわけです。

しかし店長としてはとても嬉しかったのでしょう。

なんと、年越してからちょっと経った早朝、なんと差し入れを持ってきてくれました。

お雑煮です。

私が食べてるい間は、店長がレジに立ってくれました。

なんとも豪勢なお雑煮です。

尾頭付きのエビと昆布巻きと伊達巻とかまぼこ(ちなみに香川ではかまぼこを『くずし』と呼びます)などがどっさり入ったゴージャス雑煮。

ただ、当時の私は「白味噌なのが少し残念だ」と思いました。

まぁしかし少々甘口でも良いや。

と食べ進め、いざお餅にかじりついたその時。

「ーーーッ!!!」

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私はびっくり仰天。

なんとお餅の中から溶岩のような餡子がどろりと口の中に広がったではありませんか!

熱いッ!甘いッ!助けてぇー!!

 

後で聞いたら、お雑煮のお餅に餡子が入ってるのって、香川では普通なんだそうです。

本当に驚きました。

結局のところ食べてるうちに慣れて、翌年にはもう美味しいと感じるようになってましたけどね。

 

最期に、香川県の七不思議(坂津選)をお知らせします。

・お雑煮のお餅は餡子入り

・山の形が可愛い(キレイな円弧)

・無駄にたくさん溜め池があるのに水不足

取水制限中でも優先されるうどん作り

高知県にある早明浦さめうらダムが「香川県最大の水がめ」

・『讃岐三白さぬきさんぱく』という産物を示す言葉があるが、これにうどんは入っていない。

讃岐岩サヌカイトと呼ばれる割と貴重な古銅輝石安山岩が採取される地なのに、香川県民に「香川県と言えば?」と聞いてこれが出てきたことが無い

 

あと豆知識ですが、香川県に郵便物を送るとき、県名のところを「うどん県」と書いても郵便物がちゃんと届くんですよ。

郵便番号をちゃんと書いてればね。

通勤中に子供を見掛ける季節

どうも、坂津です。

ちょっと真面目な話しなので「え?馬鹿馬鹿しいのを読みに来たんだけど」という方はバックしてくださいね。

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この時期の通勤途中は「ラジオ体操」に向かう子供たちの群れを見掛けます。

普段の彼らは日中、「学校」という集合場所に集められ、大人から知恵を授けられます。

これは、なるべく多くの個体がこの世界で生き残っていけるようにという、生物としての工夫です。

しかし現在は「夏休み」という特別な期間であり、子供たちは「学校」に集められることなく、それぞれの巣で思い思いの時間を過ごすことができます。

子供たちの習性として、翌日に「学校」へ行かないということが予め分かっている場合、その前夜は遅くまで起きていて就寝時間が遅れます。

それは、遅くまで起きていたとしても、その分だけ遅くまで寝ていられる、つまり睡眠時間そのものは短くならないからです。

 

が。

 

「夏休み」という期間中、子供たちに訪れる試練があります。

それが「ラジオ体操」という風習です。

子供たちは夜更かしをしていたにも関わらず早朝に叩き起こされ、重要度も優先度もまるで理解できない「ラジオ体操」というヘンテコな身体の動きを強要される場所へ誘われます。

まだ長期的な視点を持ち得ない子供たちは「早起き習慣の価値」や「基礎体力づくり」「身体の柔軟性」「健康に良い」などという「経年による加齢によってのみ理解できる価値」を説かれても、それが響くことはありません。

ただし、子供達には個体差があります。

「何のために」という根源的な疑問を捨て「これがルール」「決まりには従う」という素直な受容を以って現地に臨む個体も見られます。

また「ラジオ体操」そのものでは無く、そこに至る過程や、付随する現象に価値を見出す個体も存在します。

彼らは道中で視界に入る草木や昆虫などに興味を注ぎ、また共に集う仲間たちとのじゃれ合うことを主たる喜びとしているのです。

中には「溜まっていくスタンプを集めずにいられない」という本能に逆らえないタイプも居るようです。

「ラジオ体操」には1日参加すると1つ、カードにスタンプを押印してもらえます。

これを「ラジオ体操」の期間中、途切れることなく最終日まで集め続けたところで、その努力に見合うだけの報酬は得られません。

最終日に何体の子供たちが参加するのか読めない大人は、多めに見積もった適当な数の駄菓子を用意しており、本来はスタンプが全数溜まっている個体にのみ譲渡するはずの駄菓子を、目の前の子どもたち全員に配布してしまうのです。

そこには、毎日欠かさず「ラジオ体操」に参加した子供も、最終日だけたまたま参加した子供も、差は発生しないのです。

 

差が発生しないという差が、発生しているのです。

 

こんな数々の矛盾を内包した謎の儀式「ラジオ体操」に対し、私も子供だった当時は疑問を感じていました。

しかしその疑問がやがて我が身を滅ぼす毒となることを恐れた私はそれを封印し、ありのままを受け入れました。

既存ルールに疑問を持つな。

今ある流れに逆らうな。

和を乱してはならぬ。

 

 

通勤中にラジオ体操に向かう子供を見ながら、上記のようなことを考えました。

ああ、私も子供なりに色々と考えていたんだなぁと、思い出しました。

で、芋づる式にとあるブログの記事も思い出しました。

globalizer-ja.hatenablog.com

山田 新之介(id:globalizer)さんの記事は、取り上げる題材も、それに対するアプローチも実に私好みで好きなのです。

 

 

考えるに、現在の教育の在り方は「舗装整備した道だけを歩くよう」に指導していると感じます。

それは学校だけに限らず、家庭でも知らず知らずのうちにそうなっているような気がします。

そして結果的に視野の狭い、思考の浅い、器の小さな人間がどんどん製造されていっているような気がします。

「汚いから触っちゃだめ」

「危ないから行っちゃだめ」

「身体に悪いから食べちゃだめ」

「将来役に立つから教えよう」

「成長に良いから飲ませよう」

「面倒見やすいからこうしよう」

管理側の都合で多くの経験を奪われた子供たち。

恐らく、すでにそれを経てきた側からすれば「そんな経験はしなくて良い」と思っているからこその措置であり、そこには微塵の悪気もありません。

しかしどう考えても、時代が進むにつれて『過保護』がエスカレートしているように思えてなりません。

 

だからと言って解決策があるわけでもないのですけどね。

 

なので、私はせめて私が管理する対象としての部下たちには、たくさん失敗して泥んこになって欲しいと思っています。

自分で考えて、実行して、失敗して、口惜くやしんで、何がダメだったのかを検証して、リトライしいて欲しいのです。

そうすることが最も手っ取り早く「自分の世界を広げる」ことに繋がりますし、「広い世界観を持っている人」の方が、あらゆる局面において「強い」と信じているからです。

パズドラがやめられない

どうも、坂津です。

人はどうしても「今まで自分がやってきたこと」に価値を求めてしまいます。

そこにどれだけの時間やお金を注ぎ込んできたかを考えると、そのこと自体よりも遥かに高く大きい価値を与えてしまうのです。

簡単に言えば「ここまでやったのに諦められるか!」みたいなやつです。

これが「トレーニング」を積み重ねてきて「試合」を諦めない、というのなら間違いではないでしょう。

そのトレーニングはきちんと肉体に蓄積され、試合の場で発揮されることによって得られるものには価値があるからです。

それが例えば「パチンコの負け」を積み重ねて「勝つまで」諦めない、というのはバカバカしいにも程があります。

しかし、当事者にしてみれば「勝つこともある」わけですし、何より今まで注ぎ込んできたお金を無駄にしたくないという思いが発生するわけです。

ですがまぁ、パチンコであれば勝ってお金が増えることもありますし、そこに価値を見出している方々やプロの方々に対しては特に何も言いません。

 

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※色んなコラボやってるんだから『はてなブログ』ともコラボしてくれれば良いのに。

 

さて、実は私、パズドラをずっと続けています。

連続ログイン日数が1,500日を超えました。

これがダメなんですよね。

こんなの、何日続いたところで本当は何の価値も無いんです。

それなのに「今まで継続してきたから」という意地だけで、なんだかそれが尊いものであるかのような錯覚に陥ってしまうのです。

今までパズドラに費やしてきた時間、それを記事を書くことに充てていたなら、一体どれほどの下書きが出来ていたか。

考えれば考えるほど無駄な時間と言わざるを得ない。

理性ではそう分かっているんです。

それなのに「いやいや、今までやってきたことが・・・」という感情が邪魔をします。

 

つい先日、私は念願のスマホ機種変という一大イベントを実行しました。

・一度電源を切ると、なかなか電源を入れられない。

BlueToothが繋がらない。

Wi-Fiが繋がらない。

chromeが「ページを読み込めません」になる。

・電池パックがすぐ膨らむ。

はてなブログのアプリと相性が悪い。

・新しいアプリに対応してない。

・位置情報が更新されず、ずっとその場に居ることになってる。

などなど、数々の不具合を並べ立て陳情していた私を哀れに思った妻が、許可してくれたのでした。

 

妻「じゃあダイエット成功したら買ってあげよう」

私「マジで!やったー!がんばる!」

※この機種変物語は別の記事で改めて詳細を。

 

こんな経緯でようやく新しいスマホをGETした私は、機種変作業をしてくれているスタッフさんから色々な説明を受けました。

 

「ゲームなんかの引き継ぎは、新機種の方のテザリング機能を使って旧機種をWi-Fiでネットに繋いで行ってくださいね」

 

私は喜び勇んで帰宅し、いの一番に行った作業は「パズドラの引き継ぎ」でした。

 

が、しかし。

 

よく考えれば私の旧機種はWi-Fiが繋がらないのです!

従ってパズドラの機種変コードを取得することもできません!

私は焦りました。

私は狼狽しました。

私は後悔しました。

私は悲嘆に暮れました。

ですが、これは本当は『チャンス』だったのです。

『パズドラを卒業する機会』という天啓的な出来事だったのです。

 

それなのに。

 

私は無駄と分かりつつ、旧機種の画面を何度も何度もタップし、Wi-Fi接続を試みました。

今まで何度となくチャレンジしてきたこの作業。

永遠に表示され続ける「スキャン中」の文字。

絶対に拾われない電波。

 

それが。

 

私「・・・繋がった・・・ッ!!」

妻「嘘!?マジで!?」

 

もう何億回タップしたでしょうか。

液晶画面を殴打する私の人差し指は腫れ上がり血が滲み爪が剥がれ、もはや限界というそのとき(嘘です)今までずっと沈黙を守っていたWi-Fi機能が突如として起動したのです。

 

私「・・・おおぉ・・・神よ・・・」

妻「急いで!いつまでも繋がっているとは思えない!」

私「はっ!そ、そうだな!よし!」

 

こうして私は無事に機種変コードを取得し、パズドラの連続ログイン日数を継続することができました。

 

つまり、辞めるチャンスを、失ったということです。

 

私は今日もまたパズドラにログインし、イベントダンジョンをクリアし、魔法石をもらい、ゴッドフェスのガチャを回すのです。

 

皆様もどうかお気を付けください。

「今まで積み重ねてきたもの」に、本当に価値が在るのかどうか。

それを「捨てることで得られる未来」の方が、遥かに価値があったりしませんか?