『かなり』

干支に入れてよ猫

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『中断』には再開可能と、実質終了がある

どうも、坂津です。

ひとつの事象についてとりとめ無く思考をめぐらせる癖があります。

きっかけも無いまま突如現れて脳内を覆い隠す思考という名のガスは、私の海馬を刺激しつつニューロンと反応して様々な志向の思考を試行しては、意味があるのか無いのか分からない謎を垂れ流し、いつの間にか雲散霧消してしまうのです。

そして数日が経過すると考えていた内容すら忘れてしまうのが常でした。

 

しかしブログを始めてからはそんな、まるで湯気のような思考が「下書き」として溜められるようになりました。

しかもブログの良いところは、第三者に読まれることを前提に書いているということです。

自分の為に残すメモは役に立たず、過去の自分を責める材料にしかならない場合がほとんどです。

先日もメモ帳の片隅に走り書きされていた言葉の意味が分からず困り果てました。

 

「やいご先祖このやろう!何が言いたいんだこのメモ!“骨の馬のどこ”って何だ!」

※過去の自分は現在の自分のご先祖様です。

 

しかしブログの下書きからは、第三者が読んでも自分の思考がちゃんと伝わるように、詳しく説明を交えて書き残そうという姿勢が見られます。

 

途中までしか書いていない下書きでも、それを読み返せばまた続きから書けるというのは素晴らしいことです。

もともとゴールなど目指さずに考え始める私にとって、キーボードを叩きながら考えながら調べながら消しながら、また打ちながら・・・そして時間が来れば下書き保存、というルーティンが可能なのは非常に有り難いのです。

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さて、世の中には「キリの良いところまで」という言葉があります。

しかしこの世で起こる全ての中断に対して、この「キリの良いところまで」が適用されるというわけではありません。

思いもよらない中断、緊急の中断を余儀なくされることもしばしばあるのです。

その中断から時を経ず再開できるならまだ継続の余地もあるのですが、経る時間の長さと再開の可能性は反比例するのです。

 

せっかくの「下書き機能」も、この「不意の中断」によって強制的に下書かされた場合には、時間が経ったあとで読み返してもその先どう続けるつもりだったのか分からないことがあるということです。

 

↓ここから先が自分でも謎の下書き↓

 

 

どうも、坂津です。

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」って言いますよね。

何事も程ほどが肝心で、やり過ぎることはやり足りないことと同じように良いこととは言えない。
良いと言われることでも、やり過ぎは害になるという意味です。

しかし、私には日ごろから思っている「○○過ぎ」があります。

 

■ドレッシングのCM、ドレッシングかけ過ぎ。

そんなにかけませんよ!味濃すぎでしょ!

すぐ無くなっちゃうし!

 

■化粧品のCM、化粧水とか美容液とか出し過ぎ。

日頃から化粧品をお使いの方には共感していただけると思います!

そんなに出さねーから!勿体無いよ!

すぐ無くなっちゃうし!

 

ニベアのCM、ニベア塗り過ぎ。

多い多い多い!顔にそんな量とか無いわー!

その半分で良いわ!半分でも多いわ!

すぐ無くなっちゃうし!

 

こうした「○○過ぎ」は、どのようにして企

 

 

↑ここで下書きが終わっています↑

 

増え過ぎた下書きを整理していて発見したのですが、まるで先が思い出せないのです。

当時のご先祖様が、何を言おうとしていたのかまるで分かりません。

 

特に最後の「企」

どうやったらこれで終われるのか分かりません。

この先、何を続けようとしていたのかも分かりません。

 

 

謎な下書きはまだあります。

 

 

↓ここから先が自分でも謎の下書き↓

 

 

どうも、坂津です。

先日とても不思議な商品を発見しました。

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元々、藤原定家が数多の歌人から百人を選出し、歌人一人につき最優秀作品を一首ずつ選抜したものです。

だからこそ「百人一首」という名前なのです。

しかしこの商品はその存在を根底から覆す、画期的な、奇抜な、暴力的な、そんなアイデアを以って作られているのです。

「厳選50首」て。

もう「五十人一首」ですよね。

なんか一気に価値が損なわれた感というか、厳選してあるというのに、残念な感じしか無い可哀相な気持ちになります。

まだ「十人一首」とかの方が価値がありそう。

古来より人類は「百」という言葉に「実際の数値・数量としての100」以上の価値や量的感覚を持たせています。

例えばムカデを漢字で「百足」と書きます。

英語では「centipede」ですが、語源はラテン語で「100本の足」という言葉です。

しかし実際のムカデの多くは、50本程度しか足がありません。(種類によっては100本を超えるものも存在しますが)

 

これはつまり「なんか足がいっぱい!」=「100本くらい足がある!」ということです。

 

他にも私たちの身の周りには「百」が溢れています。

・百舌鳥

・白百合

百日紅

・秋刀魚

・苺

メガマウス

 

 

↑ここで下書きが終わっています↑

 

 

もう、自分の頭がどうにかなってしまっているのではないかと心配になります。

サンマにもイチゴにも「百」は入っていません。

メガマウスとかもう片仮名ですし。

 

通常、こういった下書きは、それらしい落ちに持っていくことができればリサイクルされますし、特に何も思い付かなければ下書きのまま熟成されていきます。

そしてまた更に時間が経ち、未来の私を苦しめるのです。

 

 

こんな「いつ日の目を見るのか分からない下書きたち」は、保存され続けるか削除されるか二つに一つだと思っていました。

 

しかし。

 

aoikawa.hatenablog.com

 

日頃お世話になっているブロガーさん、青い川さんの発想によって救われました!

 

下書きを下書きのまま公開し、続きが分からないこと自体をネタにしてしまうというコロンブスのたまご!!

ヘタに手を加えず素材をそのまま活かすという日本食のような調理法!

着飾ること、背伸びすることをやめ、ありのままを曝け出すアナ雪のような心構え!

ペン入れ?何それ美味しいの?下書きのまま掲載しちゃう冨樫義博先生のような気概!

 

 

ただし、そう頻発することはできません。

今後は年2回の棚卸し的な感じでこの手法を利用させて頂ければと思います。

『大沼池の黒竜』

どうも、坂津です。

今日は昔話をひとつ。

 

『大沼池の黒竜』というお話です。

※出典により様々な表現があり、どれが正しいとか間違ってるとかよく分かりません。色々混ぜた坂津バージョンとして生温かい目で見てください。基本は子供の頃に観た「まんが日本昔ばなし」です。

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昔、信州中野鴨ヶ岳(かもがたけ:現在の長野県中野市)の麓に小館城(こたてじょう)という城がありました。

城主である高梨摂津守政盛(たかなしせっつのかみまさもり:上杉謙信の曽祖父)には黒姫という美しい姫君がいました。

 

ある春の日の事、政盛達が花見の宴の最中に一匹の白い蛇が現われ、ほろ酔い気分で上機嫌の政盛は黒姫に、蛇にも酌をしてやるよう勧めました。

黒姫が盃を蛇の前に差し出すと蛇は酒を飲み、しばらく黒姫を見つめたあと去っていきました。

 

その夜、黒姫の所に一人の立派な若者が訪れ、黒姫に自分の妻になって欲しいと言いだします。

若者の言葉に黒姫は戸惑い、まずは政盛から許しをもらうよう答えました。

すると若者は自分が来た印として黒姫に鏡を渡し、立ち去りました。

 

その若者、実は大沼池の主の黒竜であり、白い蛇の姿でいたところ、宴で黒姫に盃をもらって以来黒姫の事が忘れられなくなってしまったのです。

黒姫をさらうのは道理に反すると考えた黒竜は、若者の姿をして毎日小館城に通いつめ、政盛に同じ願いを繰り返しました。

しかし政盛も大事な娘を竜の化身に渡すわけにはいかず、若者の申し出を断り続けるのです。

 

そして最初に若者が訪れてから100日が経ちました。

あまりのしつこさに業を煮やした政盛は「私が馬で城の周りを21周走るので、人の姿のままその後を遅れずについてくる事ができれば黒姫をやる」と若者に約束しました。

約束の日、政盛が馬に乗り城の周りを走り始めると、若者は後を追いました。

しかし家来たちの卑劣な妨害に、若者は傷つきやがて黒竜の姿に戻ってしまうのです。

家来達に邪魔され、傷つきながらも黒竜は死に物狂いで城の周りを21周走り終えました。

しかし政盛は「人の姿のままでと言ったはずだ」と言い、黒竜を切り殺そうとします。

この仕打ちに黒竜は激怒し、怨みの言葉を吐くと傷付いた体で鴨ヶ岳の頂上へと昇っていきました。

その途端、辺り一面は大嵐に見舞われ、激しい風雨と洪水が周囲の村を襲い、罪も無い村人達にもその被害は広がりました。

心優しい黒姫はこれを見て、約束を守るのでどうか嵐を鎮めて欲しいと黒竜に呼びかけます。

そして黒竜の鏡を空に投げました。

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すると黒雲の中から黒竜が現れ、黒姫を背に乗せると大沼池を捨て新しい山へと向かい飛んでいったのです。

こうして黒竜と黒姫は新しい山に一緒に住む事になり、それ以来この山は「黒姫山」と呼ばれ、今も山頂には黒竜と黒姫が幸せに暮らしているのです。

 

 

というわけで、きゃとらにさんこれで許して下さいm(_ _)m

www.catlani.com

こんな素敵なお誘いを頂いていたにも関わらず・・・。

結局は鉛筆画にざっくりブラシ塗りしかできずorz

 

ディズニー顔ってどんなだろうって考えながら、3秒で諦めました。

そもそも私は裸専門なので服とか描けませんし。

「黒竜の鏡を空に投げる黒姫」

「落ちてくるクリスマスリースに手を伸ばす浴衣の女の子」

ぐ、Googleのくせに生意気よッ!

どうも、坂津です。

人は不意を突かれると感情を揺さぶられます。

私が映画などを観てすぐ泣くのはノーガードで観ているからでしょう。

逆に、先入観ありありで斜めから観たり読んだりした作品で感動することはあまりありませんから、この説はきっと間違って無いと思います。

サプライズが好きな人はたぶん、こういう経験を多くしてきていて「ガードが皆無」もしくは「ガードがゆるい」もしくは「ガードの開閉が自由」なんだと思います。

でもサプライズが嫌いな人も居ますよね?

恐らくそういう人は「ガードが強固」で、しかも「自分でガードを解くのが難しい」んじゃないでしょうか。

胸に刺さる前にガードに当たっちゃうから、その衝撃に不快感を覚えるのかな。

 

あとはサプライズの演出が過剰になればなるほど、好反応しなきゃならない責任感みたいなものが空気的に強制されちゃうのも、不愉快の原因かも。

 

だから素敵なサプライズというのは、あくまでさり気なく。

そしてガードの隙間をくぐってハートに刺す!

しかも実行後に反応を期待したりしない!

 

それが、真に感動を誘うサプライズなのではないかと思います。

 

昨日も普通に仕事をしてました。

職務上必要な調べ物をするために、いつもgoogle先生にはお世話になっています。

朝から何度も、google検索を使っていました。

 

そして夕方頃、初めて気が付いたのです。

 

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ええええぇぇぇーッ!?

Googleさんってこんなことまでしてくれるのーッ!?

ぜ、全然嬉しくなんかないんだからね!

あ、あんたがお祝いしたいって言うなら、祝わせてあげてもいいケド・・・。

 

 

 

そして誕生日プレゼントとして、バズをもらいました。

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今までずっと、私のエントリのブクマ最高峰は妻の事を書いたやつだったのに。

エロに抜かれました。

 

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記事単体でのPVも、いきなりトップになりました。

エロが。

 

とても複雑な心境です。