どうも、坂津です。
自業自得って言葉があります。
自業とはすなわち自分の行いであり、自得とはその結果を自分で得るということ。
ただし『業』は単純な行動というよりも『悪い行い』という意味が強く、悪い行いが原因で得られた悪い結果を自身で受ける場合に使うことがほとんどです。
さて、ではどこからどこまでが『自業』の範囲なのでしょうか?
例えばとある高校生が居たとします。
彼は期末試験の当日に遅刻してしまい、試験が受けられず、補習を受けなければならなくなりました。
さて、遅刻の理由が寝坊だったと聞いたら、あなたは「そりゃ自業自得だろう」と思いますか?
そしてその寝坊の理由が、明け方までテスト勉強していたと聞いたら、どうですか?
ちなみに、明け方まで勉強していた理由は、先生からテスト範囲の追加が前日に知らされたからだ、と聞いたらどう思いますか?
では、遅刻の理由が寝坊ではなく、電車の遅延だったと仮定し直しましょう。
通常なら間に合う電車に乗ったにも関わらず、事故の影響で電車が遅れて遅刻してしまった場合、彼の自業自得と言えるでしょうか?
ただし、その電車は登校の定刻ギリギリに到着するダイヤで、大半の生徒が遅刻を避けるために1本前の電車に乗っていて、今回の電車の遅延の影響で遅刻した生徒はほんの数人だった、という情報を聞いたらどうでしょう?
さて、あなたの判定はどうだったでしょうか。
後出しされる情報によって、自業自得かどうかのジャッジは揺れましたか?
日頃からちゃんと勉強していればテスト直前に範囲が変わっても慌てなくて済んだとか、有事を想定して1本早い電車に乗るのが当たり前とか。
逆にテストの前日に範囲を変えるとか反則だよ仕方ないよとか、いつもなら間に合う電車が遅れたんならそれは本人の責任じゃないとか。
もしかしたら、やむを得ない事情なのに補習というペナルティを科す学校がおかしい、なんて思う人も居たかもしれませんね。
でも、例えば。
この彼が中学三年のとき、進路で進学先にこの高校を選んでいなければ、今回の補習は発生しなかったことになります。
つまり元を正せば結局は彼の自業自得だったのでは?
ただし、その進路を強く後押ししたのは彼の両親だったとすれば、責任は両親にあることになる?
お分かり頂けたでしょうか。
自業自得かどうかというのは、視点と情報によって容易に変わるものなのです。
『業』があるのか無いのか。
もし複数の『業』があれば、誰が最も大きな『業』を持つのか。
つまり、自業自得というのは『業』と『業』の殴り合いなのです。
分かりやすく言えば『いつの時点の誰に非があり、誰の非が最も重罪か』ということ。
どこまで時を遡るのか、非と非を比べたときどちらに罪ありきと断ずるのか、これに明確な基準はありません。
重大な犯罪を実行した犯人はもちろん裁かれます。
ではその犯人を育てた親は?そのまた親は?
その犯人が通った学校は?育った町内は?市政は?県政は?国政は?
辿ろうと思えばいつまでだって、広げようと思えばどこまでだって、責任の所在を追うことはできます。
じゃあそれって、どこで止めるの?
それは『ホラやっぱり○○が悪かった』と『世間が納得するところ』までなんです。
つまるところ数の暴力。
悪の根源、責任の所在、刑罰の対象として『相応しいとされる存在』のところで止まるんです。
でも、その『相応しさ』は、誰かの意図によってフィルタリングされコントロールされた印象かも知れません。
いやむしろ、そうである場合の方が多いのです。
どこからか流れてきた『こいつの業はこんなもの』という情報で即座に有罪判決を下し、思い込みとストレス発散を兼ねた匿名フルボッコを謳歌している人達。
きっともう少し、もうちょっとで人類はインターネットというフィールドをきちんと使いこなすことができるようになります。
そのとき、これまで愉快犯的にネット上を荒らしてきた報いが、自分に返ってくるでしょう。
それこそ因果応報、いわゆる、自業自得というやつなのです。