『かなり』

干支に入れてよ猫

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飽きたは言い訳

どうも、坂津です。

仕事中、ちょっとヤボ用で外出するとき、同じエレベーターに乗り合わせた会社員風の男性二人組の会話が耳に入りました。

 

A「お前ホント最低。バレる前にやめとけよ?」

B「大丈夫だって絶対バレないしバレてもまぁ」

A「なんだそれ。なぜ浮気できるのか分からん」

B「毎日同じメニューだと飽きるのと同じだよ」

 

フィクションの中では聞いたことがあるけど、実際に耳にしたのは初めてのセリフでした。

ほんの十数秒のやりとりでしたが、Bが浮気していることが分かります。

奥さんなのか彼女なのか分かりませんが、パートナーを食事に例えて『毎日同じものを食べたら飽きるでしょ』という論理展開です。

言いたいことは理解できます。

私だって毎日3食ずーっとピザだったら、たまには和食が食べたいよ~とか思うでしょう。

しかし、これはあくまでも食べ物の話。

対人関係においてこの例えは全く意味の無いものになるのです。

 

そもそも人間というのは多様性、多面性を抱えた複雑な存在です。

簡単に言えば『時、場所、場合によって違う顔を持っている』ものなのです。

つまり相手に飽きたという発言は『相手の一面しか見ていない』もしくは『見せてもらっていない』ことを明言しているようなもの。

 

対人関係において、相手に何らかの印象や役割を紐付けてカテゴライズすることはよくあることでしょう。

あの人は優しいとか怖いとか、この人は釣り仲間とか顔見知りとか。

しかしそれは自分の中にあるフィルターを通して評価されたごく一面に過ぎません。

別の角度から別の視点で見れば全く違う顔が見えてくるものです。

この見方を放棄し、自己都合で貼った勝手なレッテルしか見ず、その更新もしないままでは、そりゃ飽きがくるのも当然ってもんでしょう。

でもあなたが飽きたのは相手のごくごく一面です。

私が冒頭に『毎日ピザは飽きる』と言いましたが、それだってピザの一面しか見ていないからなのです。

世の中は広い。

和風味のピザもあれば甘いピザもある。

 

つまり、飽きというのは、対象への心離れに対する努力不足を隠すための自己擁護なのです。

好きの反対は嫌いではなく無関心、とはよく言ったもの。

関心があれば多面的、多角的に対象を観察し、より深く知ろうとするもの。

それを放棄しといて『飽きた』などと、どの口が言えるのでしょうか。