どうも、坂津です。
2週間も前に立秋を経過したとは思えない残暑が続いています。
太陽が沈むのは日に日に早くなっているのに、暑さだけは真夏のままという感じ。
日中、屋根の無い場所に停めた車のハンドルは素手じゃ握れない熱さです。
さて、私は子供の頃のことを割と覚えている
何かを食べて美味しかったとか、怪我をして痛かったとか、景色が綺麗だったとか、そういうことは覚えているのです。
しかし暑かった、寒かったについては、どの場面のどの記憶を辿っても、全く覚えていないのです。
いや、確かに記憶の光景を脳内で再現したとき、いかにも『暑そう』とか『寒そう』と思うシーンはあります。
田舎のじいちゃんと畑のトウモロコシを収穫して薪で火をおこして大釜で茹でたあの時。
どう考えたって尋常じゃ無い暑さだったハズです。
きっと全身ビッショビショに汗だくだったことでしょう。
昭和59年の記録的豪雪。
小学生だった私は大喜びで雪だるまやかまくらを作って遊びました。
あまりに珍しい雪景色に興奮して一日中外で遊んでいたのです。
このときの暑さや寒さは、私の中でどのように処理されていたのでしょうか。
少なくとも『暑い』『寒い』と思った記憶はありません。
例えば現在の私が同様の状況に身を置いたら、どうなるでしょう。
どう考えたって暑いし寒いでしょう。
そしてきっと1分おきに「暑い」「寒い」と口にすると思います。
それを吐いたところで状況が好転することは無いというのに、なぜか自然と紡いでしまう言葉。
そうか、なるほど。
よく考えてみれば子供の頃、私は『暑い』とか『寒い』とか、言葉として発したことがあまり無かったように思います。
『暑い』『寒い』と言うということは、自分が暑さ寒さを感じていることを心身ともに認めているということ。
自分が感知している五感の中で、特筆すべき情報が『暑い』『寒い』であるということ。
そう言えば高校生とか大学生の頃の記憶だと、確かに暑い寒いを覚えているんです。
自分が吐いたセリフ付きで。
「あっちぃ~!」「うーわ、さみぃ!」みたいな。
コトダマ、とまでは言いませんが、やはり自分の認識や感覚というものは、言語化することで実感を伴う現実になるようです。
そう考えると、ここ最近の倦怠感。
私は毎日のように「暑い」「ダルい」と口にしていたような気がします。
ちょっと言わないように気を付けてみようかな。