『かなり』

干支に入れてよ猫

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ゼロ年生って音の響きがもう、ね。

どうも、坂津です。

小学ゼロ年生システムが検討されているそうですね。

www.fnn.jp

内容の詳細は省きますが、簡単に言えば『従来の3月入学から新システムの9月入学に移行するにあたり、2014年4月2015年6月1日生まれの子供が“小学ゼロ年生”という特異学年に便宜上振り分けられる』ということです。

なんか中2病魂をくすぐられるネーミングですが、私は賛成派です。

そもそも現行のカリキュラムだって『長年ずーっとそうだから、そうするのが当然』という根拠以外は無いのですから、現状を改善の機会と捉えて何でもやっちゃえば良いんです。

ダメだったらやめりゃいいだけの話で。

 

ただこういうことを言うと、それに振り回される子供が可哀相とか言いだす人も居ますよね。

もちろんそんな親心も分かります。

去年までは通常運行してた学校が、我が子が入学するタイミングでいきなりシステム変更されるってのは不安が先に立っても仕方ないと思います。

でも、元々が人生なんてそんなもんじゃないでしょうか。

いつもと変わらない日常が未来にもずっと続いてると考える方が、むしろ間違いなのではないかと。

特にここ最近では『去年と同じ』なんて安定は、もう望む方が無理って感じです。

大袈裟に言えば『乗った電車が1本違っただけで・・・』と同じこと。

平等とか公平という言葉の意味を拡大解釈するのはやめましょうよ。

 

記憶に新しい例で言えば、1990年代あたりから2010年くらいまで実施されていた『ゆとり教育』ってやつ。

その期間に学生だった子らは『ゆとり世代』と呼ばれたりします。

結果的に現在では見直されてしまった学習要領ですが、これに該当する世代が自分自身を『文科省の方針の犠牲者』と捉えるかどうかは人それぞれでしょう。

充分な教育が受けられなかったと憤るのも、自身の現状を国の教育方針へ責任転嫁できる権利と考えるのも、自由です。

 

ともかく、『ゼロ年生』が施行されるかどうかは置いといて『環境について自分ではどうにもできない』という事実は、少なくとも当該世代において共通で平等です。

個人の範囲で行えるのは『それをどう捉えるか』ということだけ。

どうせ今の日本の義務教育で教えられることなんてタカが知れてるんです。

その知識の使い方、補完の方法、増強の手段についてはまるで教えてくれず、圧倒的に個人任せなのですから。

だったら国の教育システムなんてマラソンしてるときの風向きくらいに考えて、追い風だったらラッキーで向かい風だったらしんどいけど頑張ろうって感じに捉えた方が生きやすいのではないでしょうか。

 

 

戦後史の中の教育基本法

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  • 作者:宮盛 邦友
  • 発売日: 2017/06/19
  • メディア: 単行本