どうも、坂津です。
去年までは休日だった今日、それが平日になっているのが、なんだか損をしたような気がするのは私だけでしょうか。
いや、改元に伴うナントカの儀だか何だかで5月と10月でしたっけ?に休みが増えてたのはオボロゲながら記憶しています。
それで得したとか嬉しかったとか思ったのも、何となく覚えています。
しかし人間ってのは喉もと過ぎれば熱さを忘れるワケでして、それは痛い目じゃなくても同じことなのです。
良くも悪くも人間ってやつは『感情を継続できない』生き物ですから。
そう、私たちの感情というものは至極短時間しか機能しないものなのです。
嬉しいとか楽しいとか幸せとか、辛いとか悲しいとか虚しいとか、どんな感情や心的状況も、一度発生したそれが継続することはありません。
感情の持続時間というのはごく短いものなのです。
もしひとつの感情がずっと継続していると感じた場合でも、それは錯覚です。
誰かに寄せる好意も、何かに対する怒りも、漠然とした不安も、胸いっぱいの幸福感も、それが継続しているとあなたが感じるならば、それは『同一の感情が連続発生している』ことが原因です。
例えば何かに対して怒った場合。
そしてその怒りが次の日も継続していると思った場合。
上のようにひとつの感情が持続しているように勘違いしてしまいがちですが、実は私たちの感情は下側なのです。
『同一の対象への同一の感情が連続発生している』状態なのです。
いや、もっと言えば『同一であると認識している対象』への『最初に発生した感情に類似した感情』の連続発生です。
もちろんひとつの感情が発生して消沈するまでの時間は一定ではありません。
一概に何秒とか何分なんて言えません。
言ってみれば感情の持続時間は文節のようなもの。
句点『。』に辿り着くまでがひとつの感情という感じです。
長い文節も短い文節もあります。
それらの文節が連なって、文章になります。
つまり文章が一貫してひとつの感情なのではなく、文節という独立した感情の集合体として文章が成り立っていると考えることができます。
さて、なぜ感情を文節や文章で例えたかと言えば、これこそが私の発見した感情コントロール方法だからです。
発生してしまった感情を無理やりに変質させることは非常に難しいことです。
しかし、それを途切れさせて全く別の感情を発生させることはそんなに難しくありません。
文節の頭に『ところで』『とは言え』『だが』『しかし』などの『逆接の接続詞』や『転換の接続詞』を冠してしまうことで、前の感情に引っ張られること無く新たな感情を生み出すことができるのです。
図にするとこんな感じかな。
誰かに負の感情を持ってしまった場合なんかは特に、心の中で大袈裟に『さて』とか『ところがどっこい』みたいな言葉から始まるモノローグを開始することで、マイナスの感情が連続発生することを防止することができるのです。
つまり自分の感情、思考、置かれた状況などを自分の中で文章化することによって、ある程度意図的に自身の感情を制御できるというわけです。
以前に私の癖というか、脳内で作文するという話を書きました。
これの延長って感じです。