『かなり』

干支に入れてよ猫

【スポンサーリンク】

京アニの事件についての情報アレコレを見聞きして思うこと

どうも、坂津です。

 

『やろうと思ったらやれることを自制できるのが人間』だと思っています。

むしろ無意識に自制してしまう、と言った方が合っているかもしれません。

しかしここ最近、この自制ができない人が事件を起こすケースが多いです。

こういう事件の後、その犯行に利用された物が規制されることもあります。

対症療法的には正しいのかもしれませんが、出来れば予防したいものです。

 

我々日本人には馴染みの薄い拳銃もアメリカでは所持が認められています。

乱射事件等の報道を聞くと『銃の所持を規制すれば良いのに』と思います。

けれども、日本でどれだけ交通事故があっても車の所持は規制されません。

やろうと思えば大量の人を簡単に轢き殺せる凶器にも成り得ると言うのに。

現状の世の中では高齢者の免許自主返納を呼び掛けるのが精一杯ですかね。

 

そもそも我々の身の周りには犯罪に使える、凶器に成り得る物が一杯です。

調理器具、工具、通信機器、薬品、日用雑貨、調度品、生活家電などなど。

普通に暮らしていればこれらを使って凶行に及ぼうなど夢にも思いません。

そんなバイオレンスでクリミナルな思考は、フィクションの中の代物です。

考えなければならないのは凶器の規制ではなく凶行の抑止だと思うのです。

 

凶行の抑止とはつまりそんな行動に出る人を作らない社会環境の実現です。

もちろんそれが超難問であることは分かっていますが最善策でもあります。

そこから目を背け目先の原因を排除するだけでは事件の再発は防げません。

凶悪犯は環境が生み出し、環境が育て、環境が犯行に及ばせているのです。

私に具体策はありませんが、こういう考えの人が立候補したら投票します。

 

『罪を憎んで人を憎まず』という言葉が、私のこの思想に近いと思います。

とはいえ犯人を憎まないなんて、悟りを開いた聖人でもなければ無理です。

憎しみの感情は仕方ないとしても、それだけで終わらせないのが重要です。

同様の凶行に及ぶ人を生まない社会とはどんな社会なのかを考えるのです。

むしろそうしなければ一度生まれた憎しみから解放される術はありません。

 

ここで安易に考えてはいけないのは情報の排斥という愚行に走ることです。

犯行に使われた方法や知識の根本が特定の情報だ、というのは間違いです。

どんなに有害指定の図書を増やして規制してもそれは意味の無いことです。

それはつまり人間を『知ったらやる動物だ』と評価しているのと同義です。

人間は『知っていてもその行動を自制できる』存在でなければなりません。

 

包丁は人を刺し殺すこともできるが本来の用途である調理にしか使わない。

農薬で人を毒殺することもできるが本来の用途である農作にしか使わない。

こんな当たり前の自制ができない人はどうやったら生まれるのでしょうか。

それを考え、仮説を検証し、思考錯誤しながら社会の完成度を上げていく。

答えが無いまでも、こう考えることがまずスタートではないかと思います。