どうも、坂津です。
私は息子の姿をめっちゃ撮影します。
『初めて○○する息子』とか『生後○ヵ月の息子』とか、何らかの節目のときは相当に撮ります。
しかし、何でもない平時でも撮ります。
晴れ着じゃなくて普通の服でも撮ります。
ニコニコ笑って可愛い姿だけでなく、泣いて喚いてどうしようもない姿とか、グズッて寝なくて手強い状態とか、スネて怒って膨れてる表情とか、そういう全部を残しておきたいのです。
そうして記録された写真や動画は、たぶん大半は見返されることも無いんだろうと思います。
しかし、過去を遡るため、記憶を担保するため、何らかの証拠として残すため、そんな記録ではなく『記録するために記録する』というのもアリなんじゃないかと。
さて、いつか誰かが言ってたのを聞いて「なるほど、それもそうだ」とめっちゃ納得したことがあります。
それは『いま我々が学んでいる歴史は、昔の人たちの“特別”を切り取って繋いで作られた物語である』という言葉。
歴史というものは現存する資料を元に考察し考証しながら過去に起こった出来事を研究するのですが、もちろん全ての記録が残っているわけではありませんので、点と点を繋ぐような推理が必要になります。
そうした推理の足掛かりになる点としての情報は、誰かが書き残した日記かも知れないし手紙かも知れないし報告書かも知れません。
とにかく当時の誰かが『記録』したものです。
しかし誰もが気軽に紙と筆を持ち文字を扱えたわけでもない環境でわざわざ記録を残したということは、当時の人にとって『残さねばならない』と感じたことだから。
つまり現在にまで残っている歴史資料の大半は、昔の人たちにとって『やっべぇコレ一大事なんじゃね?書き残さねば!』が記録されているんじゃないかと。
ということを踏まえて自信を省みれば、息子の一挙手一投足を『記録せねばならない』と考えているこの私の日常は、つまり日常ではなく実は日常の皮を被った特別なんじゃないかと。
ああ、うん、特別だ。
考えれば考えるほど、私の人生において今この時はものすごく特別だと思えるのです。
しかも毎時更新型の特別。
もし何かの間違いで、成長した息子が私の撮影した息子フォルダを発見したとしたら、かなりドン引かれる自信があります。
しかしそんなドン引きの中でほんの少しでも『自分は親の特別なのだ』という事実に気が付いてくれたら良いなと思います。