どうも、坂津です。
こないだ社内でちょっとした問題が発生しました。
上層部の判断によって少し営業方針が変わり、各人の業務内容に変化があったのです。
私としてはもう慣れっこと言うか、自分の所属部署や職務内容が不意に変わることなんて当たり前と思っていますので特に問題はありません。
しかし、そうでない人も居ます。
もちろん急な環境の変化に戸惑ったり慌てたりするのは当たり前です。
そこに全く動じない精神を求めたりはしません。
人間だもの。
でもね。
こういう変化があったとき『うわ、じゃあ今までやってきたことが無駄じゃん』という反応は、容認できません。
どんな状況であれどんな変化であれ、それまでやってきた経験や実績を無にすることはありません。
何が起きても過去を無かったことにはできないのですから。
それなのに、その積み上げてきた実績や自分の経験を『無駄』と評するのは如何なものか。
確かに在った過去を活かすか殺すかは、自分の考え方次第なのです。
例えば学生時代をスポーツに明け暮れ体を鍛え技術を磨き続け、社会に出て事務職に就いたとします。
よくあることですよね。
これに対し『学生時代に運動してたのは無駄だった』と言う人は少ないと思います。
体調を崩しにくいとか精神面も鍛えられたとか、何らかの形で仕事に役立っているという考え方をするでしょう。
今まで業務として行ってきたことが路線変更され、やる事が変わってしまったときも同様です。
むしろこういう変化に対して『今までが無意味』『ゼロからスタート』とマイナスに構えてしまうのは、仕事に対しての無責任とか無気力が形を変えて現れているように思います。
やる気があれば『今までやってきたことをどうにか今後に活かしてやろう』とか『やること自体は新しいけど今まで培ってきた仕事感は使える』と考えるでしょう。
責任感があれば『この路線変更にも自分が気付かない何らかの意図があるハズだから、とにかく自分の職務を全うしよう』とか『出来ない仕事を出来ない従業員に割り振るわけがないんだから、自分は出来ると信頼されている』と思えるでしょう。
窮地は好機。
何にせよ、あるものの評価を『無駄』にするかどうかは自分次第なのです。
『活用』という言葉がありますが、これは『そのものの真価を活かしてうまく使うこと』という意味です。
どんな事、物でも、それを『無駄』と思ってしまうのは、まだそれの真価に気付いていないだけだからです。
むしろ真価を探そうとすらしていない可能性があります。
まずは『この世に無駄なものなど無い』という発想で、手持ちの武器をしっかり『活用』できる思考を癖付けたいものです。