『かなり』

干支に入れてよ猫

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ゴミのようだ

どうも、坂津です。

仕事でポスティングをしていたときのこと。

ざっくりと決められたエリア内でノルマの枚数だけチラシを投函するのですが、これが意外と楽しいのです。

普段なら絶対に通らない路地を徒歩でてくてく散策するなんて、なかなか機会に恵まれることではありません。

もちろん時間制限が無く、気持ちにゆとりがある状態だったからというのもありますけどね。

それでも住民の方々や道行くご近所さんに挨拶をしながら歩くのは、とても気分が良かったです。

しかし、とあるお宅のポストにチラシを投函しようとしたとき、それは起こりました。

偶然にも家主さんが出て来られたのです。

恐らく新聞を取りに来たのだと思います。

目が合ってしまったし、私はそのままポストにチラシを入れたら感じが悪いかなと思い、挨拶をした上でチラシの内容を伝えつつ「良かったらどうぞ」と言って手渡そうとしました。

すると。

 

「そんなゴミ要らんわい。これ以上うちのポストにゴミを入れたら警察呼ぶからな」

 

そう吐き捨て、家主さんはドアをバタンと閉めてしまいました。

少し悲しくなりました。

 

私が家々のポストに投函していたのはチラシであって、ゴミではありません。

情報を伝達するための手段として、紙面に文字を印刷したものです。

つまり私は『情報を伝達』していたのです。

それを、中身を読みもせず媒体としての紙だけを見て『ゴミ』呼ばわりはちょっと酷いと思います。

そこには「どうせ自分には関係の無い情報しか書いてない」とか「ロクでもない内容しか載ってない」という経験則による思い込みが先に立っていて『とりあえず中身を拝見いたしましょう』という精神が全くありません。

 

そう考えると、世の中に溢れている『ゴミ』とは、それを『ゴミである』と決めた人が存在して初めて『ゴミ』になるんだと気付きました。

レジでもらうレシートも、豚コマ200gが乗ってる白トレイも周囲のラップも、スナック菓子の外装も、それを『ゴミとして捨てる』直前まで、明確な役割を担った『ツール』として存在しているのです。

物品に感じる価値は、人によって異なります。

自分にとって価値が無いというだけで、それらを『ゴミ』呼ばわりしないで頂きたい。

 

あなたがゴミと断ずるそのアイテムに、私は無償の愛を注いでいるかもしれないでしょ?

だから私の仕事場のデスク周辺の装飾に『ゴミを見るような視線』を送るのはやめてもらえませんかっ!?

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これで癒され精神的安寧と安定を図ればひいては仕事の能率が上がるという方程式をなぜ理解しようとしないのか!