『かなり』

干支に入れてよ猫

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最も大切な他人

どうも、坂津です。

私たちは個人個人がそれぞれに異なった価値観を持って生きています。

価値観とは、簡単に言えば『何に価値を見出すか、何が重要で何が重要でないか』という考え方のことです。

例えば私は『皆で食べる大皿の唐揚げに誰に何の断りも無くレモンを掛ける』ことを毛嫌いしています。

しかしその行為は『唐揚げにレモンは正義』『正義は黙って為されるべき』『手が汚れることを厭わず皆のために為す』という価値観を持つ人には『善い行い』という位置づけになります。

そして『自ら進んで善いことをした』という自負がある人に対し「それは間違っている」と指摘したところで、相互理解は得られないどころか議論は平行線をたどり、修復不可能なまでに関係性が壊滅してしまうことすらあり得るのです。

それはなぜか。

価値観という考え方を分解すると、その中にその人が思う『分類の範囲決めカテゴライズ』が必ずあります。

固有名詞のような『名詞=そのもの』ではなく、ある程度の範囲を持った言葉ってありますよね。

例えば『ムロツヨシが好き』と言えば俳優のムロツヨシ氏を指し示し、彼に好印象を持っていることが分かります。

しかし『友達が多い』と言ったとき、その友達という言葉に分類される存在について、どの程度の親密性までをその範疇としているのかには個人差があり、絶対的な指標は存在しません。

お互いの自宅を行き来する仲でなければ友達とは呼べないとする人も居るでしょうし、実際に会ったことはなくてもSNS上で仲良く会話ができていれば充分に友達だと思う人も居ます。

このように『同じ言葉を使っているのにその解釈(範囲)が異なる』というような場合に、議論が進まず、お互いに分かり合えず、悲しい結末を迎えてしまうのです。

ですからお互いの主張がぶつかったとき、まず始めに『共通言語の確認』をしなければなりません。

対話の中で使用される言葉のひとつひとつについて、その意味するところをお互いに開示し、認識を合わせておくことが重要なのです。

例えば『彼氏にフラれて落ち込んでいる女性』に対して「男なんて他にいくらでも居る」的な慰めの言葉を選ぶ前に確認しておかなければならないのは『彼氏』という言葉の意味するところです。

もしその女性が彼氏を『交際相手の男性』という分類で認識していたのならば『そのポストに就く別の男性候補にはまだ相当数の個体が存在する』という意味で「男なんて他にいくらでも居る」と言っても大丈夫でしょう。

しかし女性が彼氏を『その人そのもの』と位置づけていた場合に「男なんて~」と言ってしまったら「私は男が欲しいんじゃなくて彼が欲しいのよ」となるわけです。

こうした事前の認識合わせは、より深くお互いを理解するため、時間を効率的に使うため、不要な仲違いを避けるためにとても有効な手段なのです。

 

妻「久しぶりにガッツリお肉が食べたいな」

私「いいねッ!でもお肉って牛?豚?鶏?」

妻「ん~、まぁ、オーソドックスに牛かな」

私「分かった!でも食べ方は?ステーキ?」

妻「切り分けるの面倒だから一口サイズで」

私「じゃ焼肉?ローストビーフ?モツ煮?」

妻「その辺は任せるよ。美味しいお肉よろ」

私「せめて焼くか煮るか蒸すか決めたいぞ」

妻「だから任せるって。美味しければ良い」

私「お互いの『美味しい』が違うでしょう」

妻「あーもうっじゃあ焼肉のタレで良いよ」

私「『で良い』とは。他に希望があるの?」

妻「もう知らない!食べたくなくなった!」

私「お肉じゃなくて他のものが良い?魚?」

妻「旦那のアホウ!」

 

相互理解の最善を尽くそうとしたハズなのに、なぜか機嫌を損ねてしまいました。

しかし私は諦めません。

なぜって、そりゃ妻のことが大好きですからね、私。