どうも、坂津です。
私は優しい人が大好きです。
人に優しくできる人が大好きです。
ただ、よく目にするんですよね、納得できない優しさ論。
例えば、ニートを養う親の優しさについて、それは単なる甘やかしだとか、自己満足だとか。
本当の優しさは一時的に突き放してでも自立を促すことだ、なんてやつです。
は?
ですね。
そもそも『優しさ=何らかの行動』だと思っている時点で論外です。
もし『一時的に突き放して自立を促すこと』が優しさなんだとしたら『ニートである子供をどうしようもなく憎んで、いっそのこと餓死してしまえと思って放置したら結果的に部屋から出てきて社会復帰した』のも優しさってことになっちゃいます。
つまり優しさが、行動とその結果が明らかになってからジャッジされるということになるのです。
そんな馬鹿な。
どんなに愚かな行動も、どんなに滑稽な選択も、その時の動機が相手を思いやってのことであれば、それは紛れも無く優しさなんです。
もちろん、子供の事を想って一時的に突き放すのならば、それは優しさです。
その影響で望まない結果になってしまたっとしても、判断を下した要因が優しさだったことに変わりはありません。
つまり、優しさは結果や行動ではなく、その原動力、動機なのです。
そして動機であるからこそ、1度で終わらないのです。
相手の為を想って選択し、行動し、結果的にそれが実らなかったとしても、動機が残っているならば、また別の選択と行動ができるのです。
例えば火。
放火したら間違った使い方ですが、発電すれば良い使い方ですよね。
逆に考えてみましょうか。
殺意とか。
強く激しく『殺してやる』と思ったとしましょう。
で、そのとき咄嗟に手に取ったのがあんぱんだったら?
その行動に対して「おいおい、そんなの殺意じゃねーよ」とは言わないですよね。
だって本気で殺そうと思ったんですもん。
たまたま手に取ったあんぱんが一般的には凶器にならないというだけで。
そこでまだ殺意が萎えていないのならば、改めて考え直すわけです。
このあんぱんを活かして毒殺にするか、もしくは一旦あんぱんの事は忘れて別の凶器を探すか。
優しさも、これと同じなんですよね。
だから誰かの行動や判断に対して「それは優しさじゃない」なんて、誰にも言う権利は無いんです。
もしそれを言えるとしたら、それは紛れも無く自分自身だけです。
あのときあの判断をした私は、本当に優しさで行動したか?
もっと深く考えれば違う答えに辿り着けたんじゃないのか?
もし望まない結果を招いてしまったのならば、後悔も反省もたっぷり味わうことになるでしょう。
しかし、優しさが萎えていないのならば、次はもっと良い選択を、もっと喜ばれる行動をとることができるはずです。
そしてこの優しさが尽きない人、いつでも行動の原動力が優しさな人、そんな人が『優しい人』なんだと思います。
結論。
『手段、方法、選択など、考え方や行動は間違えることがあるかもしれないけど、その動機になっている想いの部分まで否定することは無い』