どうも、坂津です。
当然、必然、当たり前、一般的、言うまでも無く、自然。
私たちの周りには『それが普通でしょ』が溢れています。
しかし、本当にそれは普通で当然のことなのでしょうか?
朝、顔を合わせたら「おはよう」と挨拶する。
自分の為に何かしてもらったら「ありがとう」と感謝する。
相手に不快な思いをさせてしまったら「ごめんなさい」と謝罪する。
これ、世間一般では『当たり前のこと』だと言われてます。
それが『普通』だという教育を、私たちは受けてきたのです。
でも自分自身を振り返り、そして周囲を見渡してみれば一目瞭然ですよね。
これが出来てる人の方が遥かに希少で貴重です。
もしかして、これを『当たり前』だと思っているから逆にできない世の中になっちゃってるんじゃないでしょうか。
これが『ごく普通に』できる人にとっては、それはそれで良いんです。
実に素晴らしいことですし、正に尊敬されて然るべきだと思います。
でも、出来ない人の気持ちになって考えてみてください。
いつも相手から先に挨拶されてしまい、自分は小さく会釈するのが精一杯。
囁きのような小声でボソッと発した挨拶は、きっと相手に聞こえていない。
感謝の気持ちはあるけど、それを言葉にする一歩がなかなか踏み出せない。
悪いとは思っていても、いざ謝罪するとなるとタイミングを逃してしまう。
こんな状態の人にとって、相手に言葉を掛けること自体が『とても勇気が必要な』『並大抵の労力でない』『精神力を使いはたしてようやく出来るか出来ないか』の偉業なのです。
それなのにそれを、やれ普通だ当然だなんて言われたら、モチベーションが上がるわけ無いですよね。
必死の思いでやったことを『ああ、それ普通のことだから』と流されることほどダメージの大きい攻撃はありません。
世間一般がどうとか、あなた自身ががどうとか、そういう相対的な『普通』なんてどうでもいいんです。
まずは精いっぱい頑張って行動したそのこと自体を評価して欲しいのです。
初めて立って歩いた赤ちゃんに向かって「人間なんだから二足歩行して当たり前だろ」なんて言いませんよね。
最高最大の喜びをもって賛辞を送り賞賛を浴びせますよね。
それが『同じ社会の一員』という枠組みの中に入った同士になると途端に『当然』『当たり前』『普通』がニョキニョキと頭を
私たちは相互に協力関係を築くことで社会を回しています。
そこには相対的な価値基準と評価が不可欠であることは十分に認識しています。
ですが、どこかに基準のラインを設けるという行為は、必然的に『そのラインに満たない存在』を作り出すことになります。
このことに気付かず、見えるけど存在しない地平線のような『普通』という概念を盲信し、その虚構に縛られ続けていくのは、私はゴメンです。
不良がちょっと良いことすると評価がグン上がりする例のアレ。
あれはその個人のみに焦点を当てた絶対評価ですよね。
でもそれで良いんですよ。
良いことしたんだから褒めれば良いんです。
それに対して「普段からずっと真面目や奴の方が良いに決まってるのに評価されない」みたいな意見もありますよね。
これこそが『普通の落とし穴』なんです。
相対評価しか見ていないから発生する盲点です。
そりゃそうだ。
しごくもっともなご意見です。
ずっと真面目にやってきたのに、それを『普通』で片づけられたら面白くありません。
それも良いことなんだから褒めれば良いんです。
他者と比較する相対評価、昨日までの自分と比較する絶対評価、その両輪が在ってこそ人は健全に育つのだと思います。
だから、毎朝ちゃんと起きて出勤して仕事してるあなた。
眠いけど頑張って通学して教室で授業を受けてるあなた。
面倒でも掃除して洗濯してご飯作って食器を洗うあなた。
それは当たり前でも普通でもなく、あなたの努力の賜物であり、評価に値する行動です。
よくできました!
よく頑張りました!
なので私のことも褒めてくださいッ!
最近ようやく『話を聞きながらメモが取れる』ようになったんです!