どうも、坂津です。
むか~し昔、こんな記事を書きました。
一言で表すなら『あなたが
有名な例で言えば、
考え方によって食べるもの食べないものが分かれていて、それぞれが正統性のある主義主張のもと、それぞれの菜食主義を貫いています。
でもそれを知らなかったら単純に「え?あの人ベジタリアンなの?じゃあお肉食べられないね」くらいの認識しか持たないでしょう。
しかし菜食主義の方たちの中でも、魚を食べても良い人ダメな人、乳製品を食べても良い人タメな人、ニンジンを食べても良い人ダメな人と、様々なのです。
もし仮に、この辺のことに対して認識が浅い人が菜食主義の方に食べ物を用意したら、大変失礼な事になってしまう可能性がありますよね。
もちろん『知らなかった』で済まされることも多々ありますし、深く知識を身に付けなければ何も発言できないなんてのは息苦し過ぎてゴメンです。
ただし悪意、敵意、害意、邪気、怨念など、攻撃的な負の感情を多分に含んだ言動は必ずブーメランになるので自戒しなければなりません。
例えば『ルールを破った』というカテゴリーで一括りに『犯罪者』として個人を糾弾する風潮があります。
それ自体は特に問題ではなく、罪を犯したならば責められて然るべきとは思います。
しかしその内容、責め立てる言葉の中身は、決してその対象個人の人格を否定するようなものであってはなりません。
罪を憎んで人を憎まずという言葉がありますが、まさにその通りだと思います。
被害者が加害者を憎むならまだ道理ですが、何の関係も無い部外者が蚊帳の外から口汚く見当違いの罵声を浴びせるのはどう見ても滑稽です。
しかもそれが、個人的で勝手な『叩いても良い対象』というカテゴライズの元に行われていたら尚更です。
いつの間にかその対象を、自分のストレス発散のためのサンドバッグ扱いしていないか省みて欲しいものです。
私たちはどうしても物事を既存のカテゴリーに分類して考える習性から抜け出せません。
しかしそれは効率的、合理的である半面、個々を見る目を曇らせます。
普段何気なく口にしていること、思っていることの中にもそれは潜んでいます。
「あいつはA型だから細かいこと気にする」
「東京の人は冷たい感じがするよね」
「ゆとり世代の子たちは頼りないから」
これらの意識が一般化していることも問題と言えば問題ですが、まずは自分の言動が根拠にしているカテゴリーが、自分の独りよがりで無いかどうかを考えてみることが大事だと思います。