『かなり』

干支に入れてよ猫

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愛犬に教えられた命の意味

どうも、坂津です。

私が小学5年生のとき、我が家の一員になった愛犬コロ。

柴犬成分が多めの雑種でした。

友人宅で生まれた子犬を貰ってきたのが始まりでした。

妹しか居なかった私は、弟分ができたようでとても嬉しかったのを覚えています。

コロは雌でしたが。

 

あっという間に時は過ぎ、コロは立派な成犬に、私は中学1年生になりました。

そして例に漏れず私は思春期特有の中2病的苦悩という暗礁に乗り上げます。

まだ中学1年生でしたが、中2病を先取りしたのです。

 

「私は何のために生きているのか」

 

こんな命題にブチ当たったのは、テレビでとある種類のカエルの生態を知ったときでした。

記憶が曖昧なのですが、確か『わくわく動物ランド』だったような気がします。

そこで『砂漠に住むカエル』を紹介していました。

そのカエルは1年の中で2カ月ほどしかない雨季に砂から出てきて水たまりに卵を産みます。

驚くべき速さで卵から孵化したオタマジャクシは1カ月ほどでカエルになります。

そして雨季が終わる前に砂中深くに潜って、次の雨季を待つのです。

つまり、10か月あまりの期間、砂の中でじっと雨を待って過ごしていると言うのです。

 

「なんだこの生き物・・・意味あんのかコイツ」

 

この放送を見た直後の、私の率直な感想でした。

しかしそのすぐあと、私は超ド級の恐怖に襲われます。

 

「待てよ、じゃあ私が生きてる意味って?」

 

砂漠のカエルに対して抱いた感想が、そのまま自分に跳ね返ってきたのです。

12か月のうち10カ月をじっと耐えて待つ生命に意味を見出せなかった私は、年がら年中好きなことばかりして面白おかしく生きている自分の命にも、同じく意味を見出せなくなってしまいました。

『どんなものでも命は等価値』『活動時間の長短が存在の意味を決定することはない』という潜在的な思考呪縛が根底にあったことが原因でしょう。

しかし当時の私はそんなことに気付きもせず、ただただ砂漠のカエルと自分とに大きな差を見出すことができず、神を呪う日々を過ごしました。

 

そして数日後、部屋の中から庭で寝ているコロの姿をぼんやりと眺めていた時のこと。

 

「あれ・・・?」

 

コロの首輪に鎖がついていませんでした。

恐らく散歩から帰ったあとリードから付け替えるのを忘れたか何かでしょう。

しかしコロはそれに気付かず、いつもの鎖が伸びきるギリギリポジションで寝ていたのです。

私は外に出ました。

ドアが開く音でコロは首を上げ、私の姿を確認するとシュタッと立ち上がって尻尾をブンブン振ります。

でもこちらに近づいてくることはありません。

 

「コロ、おいで?」

 

私が声を掛けてもその場でジタジタと足踏みをするだけで、鎖エリアから出ることはありません。

コロが庭を駆け巡ったのは、私が首輪に触ったあとのことでした。

付いてもいない鎖に繋がれていると思い込んで、いつもの場所から動けずにいたコロ。

私が首輪に触れて初めて「鎖を外してもらった」と認識し、庭を走り回る自由を得たのです。

 

同じでした。

 

コロも私も同じだったのです。

『生命の意味』『人生の価値』そんな在りもしない鎖に繋がれていると思い込み、その領域から出られないと自分で勝手に判断していたのです。

 

私があのとき砂漠のカエルに対して抱いた感想は正しく「このカエルは私にとって意味が分からない、価値が見出せない生き方をしている」というだけのことだったのです。

生命に対してだろうが物品に対してだろうが考え方に対してだろうが、そこに付与される意味や価値が、自分自身の枠から出ることは決して無いのだと、気付いたのです。

絶対的な存在価値、生存理由、命の意味など、無いのだと。

砂漠のカエルにも、コロにも、私自身にも、意味や価値を与えられるのは自分自身だけなのだと。

 

そもそも本来、意味や価値とは個々人の中でのみ完結するはずの概念であるにも関わらず、人間は社会を形成して生きていく道を選んでしまったが為に『共通の意味』『共通の価値』というものを発明せねばならなかったのです。

その『共通』はやがて私たちの思考の奥深くに根を張り、全ての存在には絶対的な意味や価値があるという誤解を生じさせるに至りました。

 

ようやく気付いたこの当たり前の事実に、私は新大陸でも発見したかのような喜びを覚えました。

砂漠のカエルの意味、価値を私が決めることはできない。

コロの意味、価値も、もちろん同様。

そして私自身の意味や価値だって、誰に決められるものでもないのです。

 

翌日から私は生まれ変わったような気持ちで学校に行きました。

そして男子中学生にとっては禁忌といっても過言ではないカミングアウトをしました。

 

「毎週セーラームーンが楽しみで仕方ないんだ」

 

隠れオタクから一転、公認オタクに生まれ変わった瞬間でした。

「アニメとかキモい」「あんな奴だったとは」などと、ヒソヒソ陰口を叩かれることもありましたが、しかし私は動じませんでした。

彼らに私の価値は測れない、創れない、決められない。

 

これが私の第一転機です。