「誰にも言っちゃイケマセンからね?」
「私、来月から別の会社で働くんです。だからこの会社はあと二日だけ。どうせお互いに試用期間だから、構いませんよね」
はぁぁぁぁぁあああああぁぁぁあっっ!?
「え、ちょ、何それ、え?・・・え?」
うろたえる私を可笑しそうに見ながら彼女は説明してくれました。
要約すると
・前の会社の雇用期間が切れちゃう(有給消化が終わる)
・どこかの会社に雇用されている状態じゃないと子供を保育園に入れられない
・採用通知が早かったのがウチの会社で、本命からは返事が遅かった
・私の研修が始まってから、本命の会社から採用通知が来た
・来月から出勤してと言われたので、あと数日はウチに在籍しときたい
という感じのことでした。
なんという女狐、なんという小悪魔。
でも、なぜこんなことを私に教えるのか分かりません。
普通に考えたら会社的には詐欺に遭ったような感じもしますし、桐谷さんがこの情報を私に話すメリットが見当たりません。
下手したら揉めることにもなります。
揉むんじゃないですよ?
雇用側と被雇用側で揉め事が起きるという意味です。
「それ、黙っといた方が良かったのに、なんで私に話したの?」
「だって坂津さん、ネタが欲しいって言ったじゃないですか」
ケラケラ笑いながら、桐谷さんは無邪気に言いました。
「それは冗談として。元々は家庭の事情とか適当な理由で辞めることにしようと思ったんですけど、なんだか本気で研修とかしてくるし、ちょっと期待されてる感がハンパなくて、悪いことしてる気になっちゃったんですよ」
「うん、マトモな感覚があるようで安心したよ」
「で、研修担当の坂津さんが“桐谷使えねぇー”って言ってくれれば、辞めやすいかなって思ったんです。だから協力してもらうために素直に話しました」
「なるほど、確かに今の状態で君が辞めると言いだしたら会社は全力で引き止めるだろうな。勤務形態に不都合があるなら可能な範囲で変更するだろうし、なるべく君の私生活優先で条件を出し直すと思うよ」
「でしょ?だけど私が、“辞めるって言ってくれて良かった”と思えるような低能だったら別に惜しくも無いし、円満に辞められるかなって」
確かに現状社内には彼女について、何らかの評価ができるほど知っている人間は私しかおらず、その私が「社長の目はフシアナでしたよ」とでも言えば丸く収まる、ような気もする。
しかし私は社畜。
骨の髄まで中間管理社畜。
今聞いた話を正直に上長へ伝えて、しかるべき措置を・・・なんてことしたらただでさえ繁忙期なのに余計な手間が増える気がする。
よし、彼女の策に乗ろう。
「分かったよ。じゃあ、あとは明日一日のエア研修をして、サヨナラだな」
「そうですね。私は坂津さんのブログを読めるからサヨナラって感じじゃないですけど。坂津さんは私が辞める理由を秘密にしてくれるから、私もブログのこと誰にも言いません。でも、これからは新しく読者が増えるごとに“コレ桐谷かも?”ってオロオロしてください(笑)」
「ちょ、え、勘弁してよ・・・」
こうして私は、知らないアカウントの方からのスターやブクマ、コメントや読者登録に対して怯える人生を送ることになりました。
私からのコメントに「桐谷さんなんだろ?」と書かれても、本人以外は気にしないでください。
さて、営業部長への報告書でも書こうかな。
■新入社員研修報告書■
氏名:桐谷麻衣香
配属:営業部 営業課
適性:本番に弱く精神的に脆い面がある。極度のあがり症で、客先で会話が成立しない危険があるため営業職向きでは無い。
総評:研修内容の理解・記憶共に落第点であり、なにより本人からやる気が感じられないため、我社の社員として相応しくないと判断する。
評点:E+
担当:社長室直属遊撃課 坂津佳奈
これで彼女の計画通りにコトが進みます。
そして私は今まで通りの日常を手にするのです。
明日のエア研修は、適当に時間をつぶしてもらっといて、私は私の事務処理をしよう。
無駄に早く出勤することも、不必要に遅くまで居ることも無い。
あれ?
ちょっと待って?
そういえば私の時間は?
そうだっ!!
ここ数日、私が自分の時間を削って色々やったという事実は!?
睡眠時間を短縮し、妻との時間を削り、努力に努力を重ねて捻出した研修時間は全て無駄だったということ!?
あ、ダメだ。
やってらんね。
気付いちゃったら、もう抑えらんね。
■新入社員研修報告書■
氏名:桐谷麻衣香
配属:営業部営業課
適性:明るい性格と壁を作らない雰囲気に加え、相手を引き込む話術を身に付けており営業職が天職であると判断する。
総評:研修内容の理解・記憶共に及第点であり、前向きなやる気と咄嗟の機転も利かせられる判断力と瞬発力も兼ね備えているため、我が社に必須の人材と判断する。
評点:S+++
担当:社長室直属遊撃課 坂津佳奈