どうも、坂津です。
高校時代の同級生にばったり偶然いきなり遭遇し、困惑しました。
当時の私は、カラオケに行けば8時間ぶっ通しでアニソンオンリー、授業中には教科書で隠しきれない大きさのアキラとナウシカを読破し、休み時間には友人の好きなゲームキャラクターを描いて辱めたりしました。
非オタクの級友とは「ジュディーアンドマリーだったらマリーの方が好みかな」とか平気で言うような社会不適合者でした。
そんな私の黒歴史を知る彼に、遭遇したのです。
私は焦りました。
今ではちゃんと社会復帰を果たしている私ですが、暗黒時代を知る級友との再会は、できることなら避けたいイベントのひとつです。
私の記憶が確かなら彼は、カラオケではグレイかミスチル、授業中は鏡で前髪をチェックし、休み時間は他校の女生徒にベルを打つ(若者には意味不明かと思われますが、当時はポケットベルという文字受信ツールが普及しており、公衆電話のプッシュ回線から相手のポケットベルに任意のカタカナを送信できていました)ような一般人でした。
どうしよう、こんなところで出会うなんて、想定外にもほどがある。
しかしどうしたことか、彼の方も明らかに私に気付いたはずなのに、なぜか知らん顔を決め込む様相を呈してきました。
私を気遣ってくれたのでしょうか。
それならば私も彼の好意に乗っかる他ありません。
私はまるで気付かなかったフリをしました。
アニメイトから出た私達は別々の方向へ帰りました。
彼のTシャツに描かれたキャラクターを、私は知りませんでした。
日本人の美徳として古くから根付いているものに「変化しない」というものがありますよね。
「昔ながらの製法で」「変わらぬ美味しさ」「古くからある」などなど、良い意味で使われることが多いと思います。
しかしコレに騙されてはいけませんね。
そもそも「時代と共に変化すること」が普通であり、そんな世の中にあってなお「変化していない」ということに価値を見出そうとする考え方なのでしょうが、逆ですよ逆。
時代と共に変化することの方が、よっぽど難しいし価値があるんです。
変化の方向は無限に広がっていて正解は限りなく狭いという状況で、その針の穴を通すがごとき変化を綱渡りする方が困難に決まってます。
ダメな方向に変化するくらいならそのまま止まってる方がマシ、ということなら少しは理解できますがね。
「変化しない」ことが美しいのは「志」とか「目標」とか「理念」とか、そういう精神的なものだけなんですよ、本来。
それがいつの間にか、その精神的なものを具現化するための方法や行動そのものまで不変である方が良いみたいな間違った解釈が広がってしまった。
初代から受け継いだ秘伝のタレは、代々継ぎ足し継ぎ足しで・・・って言う時点でもうそのタレは現代に合わせて変化してますからね。
変わらずに受け継がれてるのは初代の精神であって、タレそのものや製法ではありません。
人だってそうです。
「あいつは変わった」とか平気で言う人は、ちょっと改めた方が良いですよ。
人はそうそう「志」とか「理念」を簡単に見付けることはできません。
彼は本当に「変わった」のでしょうか?
今まで「定まっていなかった信念がようやく定まった」のではないですか?
彼を「変わっちまった」と貶めることで、自分の中に信念が確立できないことに蓋をしていませんか?
あなたは「変わらずにいる」ことに価値があるほどの信念を持っているのですか?
このような自問自答をし、私は改めて彼のことを思い出しました。
そしてgoogle先生をフル活用し、ようやく答えに辿り着きました。
プリンツ・オイゲン。
それが、あのTシャツに描かれていたキャラクターに違いありません。