それは、お姉ちゃんの一言から始まった。
「え?だって時計なんて、男の価値をはかるためのものでしょ?」
中学生の僕には意味がよく分からなかったけど、大学生のお姉ちゃんにとっては普通のことらしい。
どうやら、高価な腕時計をしている男の人の方が、男性として価値が高いのだそうだ。
僕にとって腕時計は、ちょっとだけ大人になった気分になれる特別なものだ。
休みの日に気になるあの子と遊びに行くときだけ着けるようにしている。
もしかすると時計は、僕の知らない色々な意味を持っているのかもしれない。
そう思ってお父さんに聞いてみた。
「誰かと待ち合わせする時、お互いに時間が分からなかったら会えないだろ?離れた場所に居る人とも、初めて会ったばかりの人とも、共通の単位で話をするための道具だよ」
確かにそうだと思った。
もし時計が無かったら寝坊しても気付かないから、学校に行って初めて遅刻だと気付くことになってしまう。
あれ?でも、もともと時計が無かったら、遅刻だってことを誰が決めるのだろう?
お母さんにも聞いてみた。
「お母さんはみんなが帰ってくる時間に合わせてご飯を作るでしょ。帰ってきてもご飯が無かったり、冷めていたりしたら悲しいでしょ?タイミングをはかるためのものよ」
そうか。
その日作るご飯の種類によって、料理にかかる時間は違うから、僕たちが帰る時間より料理にかかる時間の分だけ前に作り始めてたのか。
お母さん、いつもありがとう。
僕たち家族だけでもこんなに違うのだから、もっと他の人に聞けばもっと違った時計の意味や役割が聞けるかもしれない。
僕はワクワクしながら自分の部屋に戻った。
「ねぇコギト、君は時計について、どう思う?」
ポンプの泡でゆらゆら揺れる水草の向こうにいるコギトに、僕は話しかけた。
コギトは立派な尾びれをフワリと動かして、僕の方に向いて言った。
「イデヤ、君は相変わらず私に話しかけてくるが、やめておいた方がいいぞ。水槽の中の金魚と会話をする人間なんて気味悪がられるだけだぜ」
コギトは口から、ぷかりと泡をひとつ吐いた。
「なんだよ、最初に話しかけてきたのはそっちだろ?でもコギト、僕は君と話をするのがとても楽しいんだ。君は難しいこともたくさん知っているし、僕が知りたい事を何でも教えてくれる」
初めてコギトと会話をしたのは小学校3年生のときだった。
漢字の勉強が嫌いだった僕は、いつまでも宿題の漢字ドリルを机の上に広げたまま、一向に鉛筆を動かそうとはしなかった。
そして誰に言うでもなくぽつりと独り言を呟いた。
「別に漢字なんか書けなくたって、ひらがなだけでも生きていけるさ」
「イデヤ、君はリカが好きかい?」
僕はびっくりして立ち上がった。
キョロキョロと部屋中を見渡したけれど、誰も居なかった。
水槽にぶくぶくと空気を送り込むポンプがブブブと鳴っているだけだ。
「リカは好きかと、聞いているんだぜ?」
驚き過ぎると叫び声も出ないのか、と思った。
水槽の中の金魚が、聞こえた声に合わせて口を動かしているのが見えた。
「コギト、君なの?もしかして、君がしゃべってるの?」
「ああ。そうだとも。分かったらさっさと答えてみろ。リカをどう思う?」
驚きはしたけれど、不思議と怖いとか気味が悪いとは思わなかった。
僕は普通に答えていた。
「国語や算数よりは好きだよ。面白いもん」
コギトは口から、ぷかりと泡を吐いて言う。
「おいおい、私が言ったのは授業の理科じゃなく、君が片思いしている梨花って娘のことだぜ?」
「な、何でコギトがそんなこと知ってるんだよ!」
金魚の表情が変わることなんか、有り得ない。
僕の目の前のコギトも同じ。
でも僕にはコギトが、ニヤリと笑ったように見えた。
「そんなことはどうでも良いことさ。それよりも、私が梨花と言ったのを君は理科だと勘違いした。重要なのはそこんとこだぜ」
確かに、僕がこっそり好きな梨花ちゃんと科目の理科は、声に出してもひらがなで書いても同じ「りか」だ。
「例えば君が、理科の授業が好きで、それを紙に書いたとしよう。ひらがなでね。『りかがすきです』と君が書いた紙を、あの梨花って子が見たらどう思うだろうね?」
僕は想像しただけで恥ずかしくて、顔が熱くなった。
もしかしたら金魚のコギトより赤くなっていたかもしれない。
「イデヤ、別にそれが全ての理由じゃないが、漢字が大事なのは分かったかい?」
「うん。そうだね。コギトの言う通りだ」
あれから3年と少しが経ち、中学生になった今でも僕はコギトと話すのが日課だった。
「だから、時計についてコギトがどう思うか、それが聞きたいんだ」
お姉ちゃんは男の人の価値をはかるためのもの、お父さんは他人と時間の単位を同じにするための道具、お母さんはご飯を作るタイミングをとるためのもの、僕はちょっと背伸びするため・・・。
金魚であるコギトはどんな風に答えるのか、僕はドキドキしながら返事を待った。
「イデヤ、私の世界に、時計なんて、無いよ」
パクパクと口を動かしながら、ちょっと呆れたようにコギトは言った。
「この水槽の中が私の世界の全てだ。ここには時計なんてものは、無い」
そんなことは分かっている。
当たり前のことだ。
金魚が時間を気にして時計を見るなんて、聞いたことが無い。
分かっていて、それでも聞いたんだ。
それが分からないコギトでもないはずだけど。
「ちょっと意地悪い言い方だったかな。でも本当のことだぜ?」
コギトはスーッと水槽を一周して、また僕の方を向いて言った。
「この水槽の中の、例えばそうだな、この水草について、イデヤはどう思う?」
「それは・・・君にとっては必要だろうと思って入れておいたけど、僕にはなんで水草が必要なのか分からないし、金魚を飼うってそういうものだと思ったから・・・」
水槽の中の水草は、僕にとっては有っても無くても構わないものだ。
もし無かったら、と考えても、見た目が少し寂しくなるくらいしか思いつかない。
でもコギトにとってはきっと必要なものなのだろうと思っていた。
「いいか、イデヤ。これは全ての金魚に言えることでは無いが、正直に言って私にはこの水草は不必要さ。いいか、私には、だぜ。本来の水草が為すべき機能はすべてこのポンプが代わってやってくれる。私は卵を産むことも無いし、身を隠すべき外敵もいない。もちろん食事は君がくれるその粒で間に合っているんだからな」
エアポンプから出る泡で胸びれをゆらゆら揺らしながらそう言ったコギトは、さらに続ける。
「賢い君ならそろそろ分かってきたんじゃないか?物の持つ意味ってやつが」
そして、沈黙。
コギトはいつもこうだ。
ヒントだけ出して、僕が答えに気付くまで考えさせる。
僕はこのやりとりが嫌いではない。
というよりも好きだ。
学校でいっぱい教わる色々なことを覚えるのはとても大変だけれど、コギトと話して見つけた答えは、わざわざ覚えようとしていないのに決して忘れることはない。
「もうひとつ言おうか。イデヤ、君の腕時計を見せてごらん」
言われるままに机の引き出しから出した時計をコギトの前にぶら下げた。
「君が思うその時計の意味、役割って、何だい?」
「えっと、腕時計をして出掛けると、なんだか大人になったような気がして、ちょっとだけ良い気分になるんだ」
「それだけ?」
「・・・うん」
「でも、出掛ける時に必ず着けているようには見えないぜ?」
「・・・わかったよ、もう。梨花ちゃんにちょっとでもカッコいいと思ってもらえるように、だよ」
僕はそっぽを向きながらぶっきらぼうに言った。
コギトはプカプカと笑いながら返す。
「金魚相手に、なんで照れるんだよ。君は本当に面白いな」
まばたきをしないまん丸の目で僕を見ながら、さらにコギトは続ける。
「イデヤにとってその時計が、そういうモノだってのは分かったよ。じゃあ私にとってその時計がどういうものか、言ってやろうか?」
それを聞いて、すぐにコギトがどんなことを言うのか分かった。
どうせ、私には必要無いものとか、そんなことを言うんだろう。
そしてふと、思った。
「同じ腕時計なのに、僕とコギトで思っていることが違う・・・」
「そうだ。いいぞイデヤ。もう一歩、もう少し考えてごらん」
この腕時計に、僕は意味があると思っている。
でもコギトにはきっと、それは無い。
同じひとつの腕時計なのに、僕には意味があってコギトには無い。
よく考えたら、僕が思うこの時計の意味は、僕にしか当てはまらない意味だ。
例えばお父さんが梨花ちゃんに良い格好をするためにこの腕時計をするなんて、そんな馬鹿な話は無い。
それは僕だけの、僕が時計に与えた意味・・・。
「ねぇコギト、もともと時計に役割なんて、無いのかな?」
「素晴らしい。もう答えに辿り着いたと言ってもいいだろう。やはり君は賢いな、イデヤ」
つまりはこういうことか。
物には役割や意味なんて無い。
それについて誰かが考えた時にだけ、その役割や意味が、その人によって与えられる。
それはその人が勝手に付ける役割だから、人それぞれになるのは当たり前。
物自体がたくさんの意味、役割を持っているのではない、ということなんだ。
「さて、今ようやく君が辿り着いた答えは、やっとスタートラインでもある。どうする?続けるかい?」
僕が答えに辿り着き、すっきりした気持ちでいるところにコギトはとんでもないことを言いだした。
これがスタートラインだって?
「もちろんさ、コギト。僕は君と会話して、色々なことを考えるのが一番楽しいんだ」
「よく言った。さすがイデヤだ。では続けよう。その腕時計が話題の元だったよな?」
そしてコギトはこんなことを言った。
「物が意味を持っているのではなく、人が意味を与えているというのは事実だ。では、ちょっと想像してみろイデヤ。その時計が、誰も居ない、誰にも見えない場所に置いてあるとする。その場合その時計に、意味は無いか?」
「う~ん・・・誰にも見られていないなら、意味が無いような気もするけど、でもこの腕時計は消えちゃったわけじゃないんだよね」
「そうだ。存在していることだけは確かだと仮定して考えるんだ」
「有るんだったら、誰かが見てなくても意味があるような気がするんだけど・・・」
僕のこの腕時計が引き出しに片付けられている間、何の意味もない物体になっているなんて思いたくなかった。
僕も含めて誰かが与える意味じゃなくて、この腕時計自体が持っている意味を探してあげないと、なんだか可哀相な気がする。
もしかすると僕だって、誰からも見られない場所で誰からも忘れられちゃったら、意味が無いということになってしまう。
僕には僕だけの、意味が欲しい。
役割が欲しい。
「さてイデヤ、私には関係の無いことだが、君はそろそろ寝ないと、明日起きられなくなっても知らないぜ」
コギトはあんなことを言うけど、僕はそれどころでは無かった。
なんとしてもこの腕時計自体の意味を見つけてやらないと、僕は僕自身の意味も無くなってしまうような気がして怖かった。
誰かから与えられる意味ではなく、自分自身が本来持つ独自の意味。
それはきっと時計の外側からでは辿り着けない。
僕は時計を僕以外の物体だと認識してしまっている。
まったく先入観の無い、時計の無い世界からでもないと、答えには辿り着かないんじゃないかとさえ思った。
考えれば考えるほど、それは果てしなく深い水の底に潜るような感覚だった。
「イデヤ、さっきも言ったが、私の世界には時計なんて無い。だから時間も、気にしないくて良いんだ。何にも縛られず、ずっと自分の中の疑問について考えていられる」
コギトがいつも僕の考えていることを見抜くのが不思議だったけど、きっと僕が悩むことなんてコギトはもうずっと昔に悩み終わっちゃったことだからだろう、と思った。
「僕は明日、寝不足で学校に行くんだろうね。コギト、君が羨ましいよ」
「代わってやろうか?」
僕は声に出して答えたわけじゃなかった。
でも確かに心の中で、それもいい、と思った。
部屋の中の空気がぐにゃりと歪んで、一点を中心にぐるぐると渦を巻いた。
お風呂のお湯が抜けていくみたいに、壁もカーテンも机も、僕もまとめて。
僕は僕の意味について考えながら、僕を見ていた。
目の前に居る僕を。
ガラスの向こうの僕を。
「おめでとう。時計の無い世界で時計について、こころゆくまで考えられるな」
人の形をした僕が、水槽の中に居る僕に向かって、言った。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
駄文にお付き合い頂きありがとうございました。
お題「短編小説の集い「時計」」ということで、4,999個の文字を連ねてみました。
どうやら私は長期間推敲することが無理なタイプのようです。
考えれば考えるほど全く別の物語が産まれてしまい「この文章を直す」になりません。
3つの物語、都合14,996字を書き終え、一番マシであろうものを選びました。
よく考えたら、5,000字以内という決まりなのであって5,000字に近づけなくても良かったのだと、今さら気付きました。