『かなり』

干支に入れてよ猫

【スポンサーリンク】

どうしてそうなったのか考える

どうも、坂津です。

自分が持つ知識の範疇外で働いた因果関係について理解できず、目の前の事象を自分が分かる範囲だけで強引に理解してしまうケースがあります。

文字では伝わりにくいので絵にしてみました。

 

ある人が大きな岩を押して転がしているとします。

上り坂でとても大変です。

f:id:sakatsu_kana:20190423100237j:plain

 

押す手も踏ん張る足も痛くて仕方ありません。

なので、良い手袋と靴を装備しました。

すると今までよりも少し楽に進めるようになりました。

f:id:sakatsu_kana:20190423100421j:plain

 

そして、いきなり岩が勝手に進みだしました。

今まで頑張って押していたときより相当早い速度で転がります。

f:id:sakatsu_kana:20190423100521j:plain


このとき、この人物が重力という要因を知らず、下り坂で岩が転がることを理解できていなかったと仮定しましょう。

『この手袋と靴を装備して押せば岩が勝手に転がるようになる!』

と誤認してしまう可能性があります。

『よく分からないけど押し続けていれば良いことがある!』

という解釈も考えられます。

しかし私たちは下り坂では重力の影響で球状の物体が下方へ転がることを知っています。

なので、この人物の解釈に対して「そりゃねーよ」「んな馬鹿な」と思うのです。

 

さて、上のケースは極端な例でしたが、実際の生活の中でこのような思い違いは多々あるのです。

縁起が良いとか日ごろの行いが悪いとか、そーゆーのもこれに含まれる気がします。

自分の理解を超えたところに存在する因果によって目の前の事象が引き起こされたと解釈するという点で一致しています。

茶柱が立つことと幸運に恵まれることの間に明確な因果関係はありませんが、人はこれを『縁起が良い』という一連の流れで理解しようとします。

他人にいじわるをしたことと急な腹痛に襲われることにも因果関係はありませんが、人はこれに『バチが当たる』という仕組みを適用しようとします。

ただし『縁起』や『運』などについては、誰にもその因果関係が判明されていないことなので『そうではない』と断言することもできません。

もしかしたら『そうかも知れない』という可能性が残されています。

しかし先の例では明らかに『そうではない』のです。

 

もしあなたが事例の人物から

「なに?困ってるの?じゃあこの手袋使ってみろよ!」

と言われたら、どう思いますか?

やんわり断るとか誤解を説明するとか苦笑しつつ受け取るとか、反応は人それぞれかも知れませんが、まさかその手袋を装着したら自分が押している岩が勝手に転がり出すと信じる人は居ないでしょう。

 

しかしこれがもう少し専門的な知識が必要な分野で起こった出来事である場合、ちょっと話がややこしくなります。

専門的な知識を有している人からすれば「そんなこと有り得ない」という現象について、特にその分野に明るくない人が「いやいや絶対これの影響でこの結果になったんだって」と言い張るというケース。

しかも言い張ってる人の方が立場的に上というケース。

 

良いですか社長、そのシステムを導入しても我が社の売上には何の影響もありません。

他社がそれで上手くいっているのは、そもそも業種も客層も違うからです。

お願いします、聞く耳を持ってください。

乳児の泣き方

どうも、坂津です。

最近になってようやく、息子の泣き方にバリエーションがあることが分かってきました。

新生児の頃はさっぱり分かりませんでしたが、そろそろ5か月という今になってやっとこさ、です。

私が認識しているのは以下の4パターン。

四六時中ずっと一緒に居る妻はもっと細かく把握しているかもしれません。

 

何かしたい(して欲しい)ことがあるとき

「え゛い゛っ! え゛い゛っ! え゛い゛え゛い゛え゛い゛っ!」

お腹が空いた、抱っこして欲しい、抱き方が違う、というような時にこの泣き方をします。

涙はほぼ出ません。

音を伸ばさず、短く「え゛い゛」を繰り返します。

手足もジタバタするので、空手の練習で「セイッ!セイッ!」ってやってる感じになります。

この段階だと、脇腹をくすぐるとかハイテンションで話し掛けるとかで気を紛らわせることが可能です。

もちろん根本的な欲求が満たされていないので短時間しか効果はありませんが、一瞬泣きやませることはできます。

 

不機嫌(構ってほしい)なとき

「え゛ぇぇーい゛ぃぃーーーえ゛ーい゛ーふぐぅ」

上記の「え゛い゛っ!」に対してリアクションが遅くなると、これに変化します。

少し涙が出ます。

放置時間が長いと流れ出すくらいの涙になります。

息子が泣き始めたらなるべく即座に対応したいのですが、タイミングによっては少し待ってもらうこともあります。

こうなると、あやして気を紛らわせることは不可能になります。

息子の望みが叶うまで泣きやむことはありません。

それとは別に、いきなりこの泣き方になることもあります。

抱いている息子が寝ているものとばかり思ってテレビに夢中になっていると、突然これが始まります。

まるで「こっち見ろよ~構えよ~」と言っているようです。

 

痛いとかびっくりしたとか何らかの異常があるとき

「あ゛あ゛あ゛ーッッ!! ぃぎゃあ゛ぁぁぁぁーッ!!!」

予防接種の注射をうたれた時にしか聞いたことがありません。

ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出ます。

甲高い叫びが内包された、警報のような泣き方で、声も大きいです。

今までギャン泣きしている息子に、どこか怪我やなにか病気で苦しいとかを心配することもありましたが、この泣き方を知ったのでもう大丈夫。

何か身体に異常があるときはこのくらい泣くんだと知れて良かったです。

 

眠いけど寝れないとき

「ぁ・・・ぁあ~ん~・・・あ゛ぁ~ん゛~う゛~・・・あ゛う゛~」

泣く前にまず予備動作として、顔がくしゃっとなります。

上記3つのパターンでは泣き声から先に始まるのに対し、眠いときの泣き方はまず泣き顔を作るところからスタートします。

初期段階では涙は出ません。

なかなか上手に寝かせてあげられないときは涙が流れます。

息子の気分なのかコンディションなのか環境なのか、その時々でどのような抱き方で寝るのかが変わります。

正解を見付けるまで「こうかな?」「あ゛~ん゛~」「これかな?」「あ゛~ん゛~」を繰り返します。

最終的には私の抱き方に正解は無く、妻が抱っこしたらスンッと寝ることもしばしば。

f:id:sakatsu_kana:20190422094514j:plain

 

まぁしかし、ようやく掴んだこの感覚も、息子の成長と共に役に立たなくなるんだと思います。

ベビー服が次々にサイズアウトしていくように、その時その時で身に付けたコツはきっと、明日の息子には通用しないのでしょう。

でもそれは「せっかく覚えたのに」とがっかりするところではなく「次のステージが始まった」とワクワクするところなのです。

ゲームでもそうですよね?

ステージに関する予備知識もレベルも装備も充実していて楽に勝てる場面ばかりを繰り返し周回してても面白くありません。

ひとつクリアした後は、より難易度の高いステージにチャレンジするのが醍醐味です。

子育てをゲームと同一視するなとか誰かに怒られそうですけど、私としては間違って無いと思うんですよね。

猫の読み方

どうも、坂津です。

私の記憶が確かならば『目線』という言葉は誤用の方が広まり、現在では誤用でなくなった言葉の一つだったハズだ。

芝居の世界の業界用語として使用されていたものがいつの間にかテレビなどで普通に使われ出し、それが広まって『立場』や『考え方』という意味に拡大されたように記憶している。

相殺の読みも、そうだ。

本来は『そうさい』であるが、あまりにも『そうさつ』と読む人が多いので、じゃあもうそれでも良いやと、どちらの読みでも正しいことになってしまった。

このように、言語というものは時代とともに移り変わっていく可変のものである。

故に『正しい日本語』という言葉も、その正当性は実に怪しいものである。

正確に表現するならば『〇年当時に正しいとされていた日本語』と表現すべきなのだ。

 

さて、ここで私が常々思っていることを吐き出しておきたい。

それは犬と猫についての『読み方』である。

例えば『秋田犬』を、どう読むか。

『あきたけん』と『あきたいぬ』の両者が存在すると思われる。

しかし正しくは『あきたいぬ』であるとされている。

なぜなら日本語は、熟語を構成する漢字の読みを音読みか訓読みで統一するからだ。

『重箱(じゅうばこ)』や『湯桶(ゆとう)』などの例外もあるが、基本的には音訓を合わせる。

簡単に言えば『秋田』は訓読みで『あきた』となり、音読みでは『シュウデン』となる。

『秋田』部分が訓読みなのだから『犬』も訓読みすべきであり、音読みの『ケン』ではなく『いぬ』が採用されるのだ。

だから『愛犬』は『愛』が音読みなので『犬』も音読みして『アイケン』となる。

 

すなわち『愛猫』は『アイビョウ』となるのだ。

 

しかし、耳馴染みは、無い。

そもそも普通に生活している中で『猫』の音読みが『ビョウ』であるという事実にはなかなか触れる機会が無い。

『犬』と書いて『いぬ』『ケン』、『猫』と書いて『ねこ』は割りとよく耳にするのに、なぜか『ビョウ』だけあまり聞かない。

これは『ビョウ』という音の響き、つまり語感が猫という存在からかけ離れているからだと、私は推測する。

『ビョウ』といえば『病』『秒』『鋲』など、およそ猫とは似ても似つかないものを先に連想するだろう。

『ねこ』の持つ丸く温かくしなやかでフワフワの愛らしい語感とはかけ離れ過ぎている。

 

それから発音したときの座りの良さも問題だ。

最後が『ん』で終わる単語は歯切れがよく、発する側も聞く側も耳に心地よい。

だから『犬』を『ケン』と読むのはすんなりと受け入れられる。

 

まとめると

・言語は変化する

・猫の音読みは浸透していない

・ビョウという語感は猫らしくない

・最後は『ん』で終わりたい

 

以上のことから私は『猫』の音読みに『ニャン』を追加し、それを正しい日本語として定めても良いのではないかと思っている。

『愛猫』は『アイニャン』となる。

うむ、実に素晴らしい。

 

ねこといぬ (IWAGO'S BOOK) (IWAGO’S BOOK 3)