『かなり』

干支に入れてよ猫

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どうやら舐めていた

どうも、坂津です。

久々に学習することになりました。

妻が胎内に宿す我が息子を外界の空気に触れさせる儀式と、その手順について。

また儀式を経て降臨せしめた息子との邂逅を果たしたのち、その息子の正しい取り扱い方法についてを。

簡単に言えば、妻と二人で『パパママ学級』なるものに参加することとなったのです。

 

妻「旦那は何か不安なこととかある?」

私「まず正しい持ち方が分からんのだ」

妻「持ち方って。なんか物みたいで嫌」

私「では新生児における体躯の支え方」

妻「相変わらずめんどくせぇな旦那は」

私「あと置き方も分からんのだけれど」

妻「置き方って。せめて寝かせ方とか」

私「では新生児における体躯の安置法」

妻「旦那がそれで良いなら良いけども」

私「持てて置けたらあとは大丈夫かな」

妻「なんかすげぇ簡単に考えてない?」

私「え?だってそれくらいじゃない?」

妻「いや、ミルクの飲ませ方とかさぁ」

私「乳首突っ込みゃ勝手に飲むでしょ」

妻「それ本気?沐浴のさせ方とかは?」

私「チャプチャプすりゃ良いんでしょ」

妻「アバウト!じゃあオムツ交換は?」

私「古いの脱がす&新しいの履かせる」

妻「よし分かったそこに正座しなさい」

 

こうして、チュッパチャプスのごとく育児を舐めまくっていた私は、出産&育児の厳しさと切なさと心強さについて小一時間ほど説明を受けました。

そして妻の取計いで前述の学級を受講することになったのです。

 

私「確かに軽く考えてたのは認めよう」

妻「軽さの度合いがひどい。ヘリウム」

私「そんなに!?空気より軽かった?」

妻「風船が浮く軽さ。声も変になるぞ」

私「その学級とやら、甘んじて受ける」

妻「じゃあ午前中はエコーを見ようね」

私「マジでか!?また見られるの!?」

妻「んで午後からはパパママ学級だね」

 

およそ2か月半ほど前、エコー画像を確認して我が子との絆を確信したあの日。 

あれからどのくらいの成長をしているのか、とても気になるところです。

『男子、三日会わざれば刮目して見よ』という言葉がありますので、2か月半も経過していたらそりゃあもう想像を絶する成長を見せてくれるハズです。

そして、そんな宇宙開闢にも匹敵するような超成長を目の当たりにした直後であるならば、私もパパママ学級なる学習の場においての勉学にも身が入るというものであります。

今から楽しみで仕方ありません。

他人から言われること

どうも、坂津です。

私たちは『自分が満足したい』という欲求と『他者から評価されたい』という欲求、この2つを動機に行動します。

最良なのは、自分の行いによって生じた結果が、他者から高い評価を受け、尚且つ自身でも満足できるという状態でしょう。

 

しかし、往々にしてそう上手くはいかないものです。

 

他者からの評価が高くても、自分自身が納得できないということもあるでしょう。

オリンピック選手がメダルを辞退したり、陶芸家が皿を割ったりするようなケースです。

また逆に、他者からの評価はイマイチでも、自分自身が満足していれば良い場合もあります。

 

『他者評価』と『自己満足』のどちらに重きを置くか、それに答えはありません。

正解も常識も王道も通念もありません。

これは個人の価値観でしか決められないものなのです。

 

他者評価にこそ価値を感じる人からすれば「例え自分が満足できたとしても、そこに他者からの評価が伴わなきゃ何の意味も無い」と考えるでしょう。

逆に、自己満足に価値を置く人は「どれだけ他者から賞賛されても、自分が満足できなければ虚しいだけ」と考えると思います。

恐らく大多数の人は、この両方の意見がどちらも理解でき、上手くバランスを取るようにしているのではないでしょうか。

自分が成したことに対して他者から思いがけない高評価を受けたとき、自分ではそこまで満足していなかったとしても、その評価を受け入れるケースもあるでしょう。

反対に、自分では完璧だと思って大満足していたものの価値が他者に認めてもらえず、しかし自身の満足度の高さをもって良しとする場面も多くあると思います。

これは私たち人間が『個』という特性を捨てきれないまま『社会』の中で生きている以上、避けようの無い現象です。

 

さて、しかしこの『他者評価』と『自己満足』の個人的価値観を、他者批判に用いているケースをしばしば見かけます。

 

周囲から高評価を受けている人が、自身では満足できていないという趣旨の発言をしていることに対し「評価されてるんだから贅沢言うなよ」みたいなことを言ってみたり。

自分に大満足している人に対して「周囲に認められてから満足しろよ」なんてことを言ってみたり。

 

正直なところ『それはアンタの価値観であって、当人の基準とズレてるよ?』と思えて仕方ありません。

単に感想として述べているだけなら問題ないのですが、どうにもズレている人に限って『批判』だったり『指摘』だったり『諫言』だったりを気取っている場合が多いのです。

まず他者を批判したいのなら、その当人がどんなルールに則って行動したのか、しているのかを理解しなければ、正当な評価などできるはずがありません。

 

雑な比喩をするならば、バスケットボール選手に向かって「ボールを手で触ったからハンドね」と反則を指摘しているようなものです。

滑稽でしかありませんよね。

『2チームで1つのボールを奪い合い、ドリブルやパスで繋ぎつつ相手のゴールにボールを入れる試合』と聞いてサッカーだと思い込み、よく調べもせずに喚き立てる。

 

誰かの何かを批判するとき、その対象がどんなルールに則ってその結果に辿り着いたのかを理解する努力を惜しんではいけません。

 

また逆に、自分のことをロクに理解していない人から言われたことで腹を立てたり悲しんだりするのは大きな損失です。

全く気にしないのは難しいでしょうが、外野から何か言われたとしても受け流すのが精神衛生上の健康を保つ上策なのではないでしょうか。

課題を1つクリア

どうも、坂津です。

今週のお題「最近おいしかったもの」

天ぷらやとんかつ、高級なお肉など、塩で食べるという方々がおられますよね。

 

は?

 

天ぷらは天つゆ!

とんかつはソース!

お肉なら焼肉のタレ!

 

などと供述していたこの私が、なんと、塩で食べる美味しさを、知ってしまいました。

 

以前にご紹介した美味しいお豆腐。

上の記事で食べたのは『おぼろ豆富』と『生ゆばとうふ』でした。

 

引き続いて今回ゲットしたのは『ざるとうふ』なる逸品。

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期待に胸を膨らませつつ開封すると、前回と違う点が。

前の2種類は液状のタレが添付してあったのですが、今回はなんと『藻塩』じゃありませんか!

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てか藻塩ってなんだよ!

普通の塩じゃないのかよ!

その前に豆腐を塩で食うの!?

 

などと軽いパニックを強靭な精神力で抑えつつ、とりあえずはお勧め通りの食べ方をしてみようと素直に従う私。

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完全な塩初心者ですからどのくらいの分量を乗せればいいのか分かりません。

とりあえず無難な感じでふりかけつつ、震える手で口に運びます。

 

「んんんんまあぁぁぁ~いッッッ!!!」

 

なんということでしょう!

塩が豆腐の味を引き立てる引き立てる!

大豆の甘みと風味が口の中いっぱいに広がる!

塩の味で食べるというよりも、塩が完璧なアシストをしている感覚!

これか!

これが塩で食べるという醍醐味なのか!

 

つまり『それを塩味で食べる』と思い込んでいた私が無知なだけだったのです。

塩は味をつけるためのものではなく、味を調えつつメインを引き立てるバイプレーヤー。

そうだったのかー!

 

ギリギリ30代で『塩で食べる』という課題をクリアできて良かった!