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『かなり』

私が感じる「かなり」なことを徒然に。

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あなたの人生は未来にしか拓けていない

あけましておめでとうございます、坂津です。

今回は、ちょっと過激な記事です。

不愉快に思われる方もいらっしゃると思います。

ちょっとでも「嫌な雰囲気」を感じたらブラウザバックしてくださいね。

 

自分宛てにこんなメッセージが届いたらどう思いますか?

 

あなたは多くの「選択」を重ねて今まで生きてきたと思っていないか?

人生には様々な分岐点があり、その度にどのルートを選ぶか「選択」したと、思っているだろう?

そしてその「選択」には「正解」と「不正解」があると、思ってはいまいか?

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その思い込みを、ぶち壊そう。

もしあなたが「あのとき、あの選択をしたから今がこうなんだ」と思っているなら、それは大きな間違いだ。

「今がこう」なのは、たった今のあなたが「そう」だからだ。

決して変更できない過去の自分のせいにして逃げるのはやめなさい。

「過去のある地点でA路とB路が存在し、A路を選んだから今の自分と、今の周囲の環境がある」という思い込みは、逆に言えば「現在の状況は過去の選択に起因するものだから、今更何をどうしようと変えられない」という逃避だ。

しかも他人のせいにしない分、余計にタチが悪い。

過去の自分という非存在を創造し、そこに人格を与え、あたかも自分を責めているような素振りで「そいつ」を責めるのはやめなさい。

 

もちろん、全てのケースにこの話が通用するとは思ってないが、それでもほどんどの「選択に対する後悔」について当てはまると考えて良い。

 

例えば。

AさんとBさん、どちらと付き合おうか迷ってAさんを選んだ。

しかし半年後、Aさんとうまくいかず分かれることになった。

これを「今の悲しい失恋は、あのときBさんを選ばなかった自分が悪い」と考えるのは愚の骨頂。

バカバカしいにもほどがある。

きっとこの人はBさんを選んでいても同じ結果を辿る。

「あのときAさんを選ばなかったから」って。

 

良いか。

「選択」に、「正解」も「不正解」も無い。

自分の「選択」は、単なる「選択」であり、それ以上でも以下でも無い。

それが「正解」であるか「不正解」であるかは、決まっていない。

 

ただし、それが「選択」ではなく「賭け」だったのなら話は別だ。

「賭け」には「正解」と「不正解」があるから。

世の中には多くの「賭け」が存在し、そこに身を投じる人たちは、可能な限り「正解」に賭けられるよう努力する。

情報を集め分析し勉強して知識や技術を身に付ける。

この努力によって「正解」が分かる場合は、もはや「選択」でも「賭け」でもなく、単なる「解答」だな。

 

さて、あなたが「賭け」ではなく、きちんと「選択」をしたのならば、その「選択」についてそれを「正解」にする権利を、あなたは持っている。

逆に、「不正解」にしてしまう危険性も、あなた自身が持っている。

 

人生は「選択」の連続だ、などとよく言われるだろう。

そういう見方をすれば、そうだろう。

では「何のための人生か」という問いには何と答える?

つまり「何のために選択するのか」ということ。

 

自身の「選択」を「正解」にするための人生を歩めない人は幸せにはなれない。

間違って欲しくないのは「賭け」の結果を強引に「正解」にしようとするのと、「選択」を「正解」にするのは全く違うことであるという点だ。

 

今、何かを選ぼうとしているあなたへ

それは「選択」か?

「賭け」になっていないか?

もし「賭け」ならば、結果については潔く受け入れなければならない。

もし「選択」ならば、それが「正解」であったと思えるように生きねばならない。

 

 

という文章を、書きました。

高校生の私が。

「10年後、20年後、30年後いずれかの自分へ」みたいな課題で、当時の私は20年後の私に向けて、この文章を書いたのです。

記事のタイトルも、作文のタイトルをまんま使いました。

超絶生意気ですね。

しかも「」を多用して文字数を増やしているという猪口才ぶり。

だがしかし、まぁ、考え方は悪くない。

荒削りではあるが、光るモノを感じる。

アホはアホなりに、考えたんだろうな。

 

よし、また10年後にでも読んでみるか。