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『かなり』

私が感じる「かなり」なことを徒然に。

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【電通】鬼十則を削除するのは間違っている

思ったこと

どうも、坂津です。

電通さんの鬼十則、好きなのになぁ。

社員手帳から削除されちゃうかもって。

なんだか羹に懲りて膾を吹く(あつものにこりてなますをふく)感じが否めない。

熱い吸い物で口をやけどした者が、なますのような冷たい料理も吹いて冷ますという意味から。
多く、なにもそこまで用心深くなる必要はないのに、というあざけりの気持ちを込めて使う。
「羹」(あつもの)とは、野菜や魚肉を入れて作る、熱い吸い物のこと。
「膾」(なます)とは、現在は酢などで味付けをした冷たい和え物のことだが、そもそもは獣や魚の肉を細かく切った肉のことをいった。

下手をすると鬼の念仏(おにのねんぶつ)じゃないかと勘繰られそうだ。

日ごろそのような素振りを見せない、無慈悲で冷酷なものが、うわべだけ心を入れ替えたかのように振舞うこと。

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ちなみに鬼十則とはこんなものです。

1. 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
2. 仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
3. 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
6. 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
7. 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
8. 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
9. 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
10. 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。

何ひとつ間違っていない。

素晴らしい社則ではありませんか。 

 

 

人間が他の動物と一線を画す部分は「個」と「社会」を両立させていることです。

個人はヒトとしての生命体であるのと同時に、社会というひとつの大きな生命体の一部でもあります。

「個」が強すぎると社会に帰属する部分が希薄になりますし、「社会」が強すぎると個人を軽視してしまいます。

多くの人は「自分は個人であり、また社会の一部である」という漠然とした認識を持っているのではないでしょうか。

もしくは「そう言われればそうだよね」と同意できるとか。

やっかいなのは、なぜか大半の人間が「個」と「社会」を上手く両立させてバランスを取ることを美徳とする性質があります。

 

例えば蟻や蜂などは多数の個体で社会を形成しています。

※昆虫に対してその集まりを社会とは呼ばないというご意見もあるでしょうが、ここではそう扱いますのでご容赦ください。

個体それぞれが何らかの役割を持ち、そこから外れることなく行動します。

彼らは(本能、と言うか反射であったとしても)自らが所属する社会を成立させるためだけに生きています。

そこに個体ごとの意志や考え(を、もし持っていたとしても)は介入しません。

 

さて、人間はどうでしょう?

自分を社会の一機能としてその役割を認識し、その為だけに生きられるでしょうか?

そのような方がおられたら、極めて稀な存在だと思います。

私たち人間は自我を持っています。

自身の内なる声や、また他者との差によって認識されるこの自我というものが、社会への完全なる帰属を抑制してしまうのです。

 

そして私たちは他者にも、自身と同じように自我があると認識しています。

 

さらに、自身と他者とで共同して作り上げる社会の必要性も認識しています。

 

「自我」「他者の自我」「社会」という決して相容れない存在を共存させることによって私たち人間という種は存続しています。

しかしそのバランスは危うく保たれており、現在は順調に崩壊へ向かっています。

 

簡単に考えるために、自分自身をピザの1ピースに置き換えてみましょう。

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本当はこんな単純なものではありませんが、この図形全体が自分自身だと思ってください。

黄色い部分が「何ものにも縛られず自由に好き勝手したいエリア」です。

赤い部分が「所属している社会のルールや仕組み、考え方」です。

このような自分自身と同様に、他者が存在していると認識すれば、社会はこんな感じの図になると思います。

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ここに、私たちが知らず知らず通過してしまう不幸の門があるのです。

 

私たちは本来、最初の図のようにピザの1ピースのような扇形でした。

しかし社会に所属することにより、赤い部分の拡張が始まります。

これは自分の中で赤色の占める割り合い広がるという意味ではありません。

他者の中にある赤色にまで浸食するという意味です。

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本来存在したはずの自分自身という外骨格(紺色の線)が、社会に所属している部分で融解してしまいます。

こうなると「社会」というものが、「容易に他者に踏み込める免罪符」として機能し始めます。

つまり「他者の中にある社会にまで、自分の発言権が及ぶ」という勘違いをしてしまうのです。

勘違いされた管轄エリアはこんな感じです。

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ここで更に厄介な問題が出てきます。

実は私たちの中の「個人」と「社会」には、これらの図ほど明確な仕切りはありません。

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こんな感じです。

 

境界が曖昧であるから、歪んだ歴史が作りだした根拠の希薄な社会通念のような信条が、まるで自分の生き方の骨格であるかのような哀しい勘違いを生んでしまうことがあります。

「女性は家庭に入って育児と家事を全うするのが本当の幸せだ」とかね。

 

逆に、あくまで個人的な感覚を、まるで社会全体のルールであるかのように錯覚してしまい、他者に対して強要すべきでない内なる感情を大義名分だと思い込んで振りかざしてしまったりします。

「電車内で化粧をするのはみっともないのでやめましょう」とかね。

 

「個人」と「社会」に境界を引くのは、その個人でしかありません。

そしてその境界には明らかに個人差があり、私たちはそれを生活の中で日常的に感じて生きています。

↓パーソナルとソーシャルの違いを、非常に分かりやすく解説されています。↓

www.coconoodollblog.net

 

「みっともない」「はしたない」「恥ずかしい」からやめましょう、という説得は、相手がそれに同意しない限りまるで効力を持ちません。

「みっともない、はしたないと思われても構わない」「恥ずかしくない」と言われた時点で議論が終了してしまいます。

 

 

 

さて、ここで話を戻したいのですが、ヒトという種がなぜここまで発展できたのかというと、それは一重に「種として繁栄するための社会」を築くことができたからです。

生物界の中で最も秀でた知能を持ち、しかもそれを個としてではなく社会として用いることが出来たための今日であることは疑いようもありません。

 

 

で、やっとタイトルの中身についてです。

昨今の色々なニュースを耳にするたびに感じていたことなんですが、私たち人間が持つ最大の武器である「社会」が、矮小で脆弱なものに作り変えられていくような気がしているんです。

もちろん個人を守ることは大切です。

かの名君、ネフェルタリ・コブラの格言にもあるように、「国とは人」なのです。

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信玄公も「人は城、人は石垣、人は堀」と言っています。

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確かに社会に属する個人個人を疎かにしてはいけません。

これは最重要項目であり、大前提です。

 

しかし、大切にするのと過保護にするのは違うと思います。

例えば「教育と体罰の境界が曖昧だから物理的接触を一括りに体罰扱いしてしまおう」なんてことになったら、先生たちはやりにくくてしょうがないですよね。

ごく一握りの暴力教師を抑制するための策が、結局それ以降すべての子供たちへの教育の質を落としていくことにもなり兼ねない。

 

同じく、労働力としての従業員ひとりひとりを守ることは大切です。

しかし、ごく一部のハラスメント上司を抑制するための策が、企業そのもの、そして業界、社会全体まで弱体化させてしまうのではないかと思えてなりません。

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どのバランスが最適なのか。

パーソナルの割合が大きいほど個人は守られますが、しかし人間全体として見た時のチカラは小さくなります。

ソーシャルの割合が大きいほど、私たちのパーソナルは軽視されてしまうでしょう。

「分かってるけど、じゃあどうしろっての」というのが最も多い意見だとは思います。

私自身がそうなので。

こんなことを書いていても、結局のところ何の代替案もありません。

 

ただせめて、私の手が届く範囲内では「仕事が楽しい環境」を作りたいと思っています。

新作ゲームにハマりすぎて寝る間も惜しんでプレイし続けて寝不足になったとしても、その人はゲーム会社にクレームを言ったりしません。

それは「自分の意志で、自分が楽しむために」とそうしたからです。

仕事も同じだと思います。

仕事の内訳を「強制的」と「自主的」に分類したときに「自主的」の方が大きければ、きっと苦労も達成感に変わるし、困難も面白さに変わると思います。

 

 

電通さんの鬼十則は、きっと本当に伝えたい意味が間違って伝わる可能性がある表現があるだけなんじゃないかと。

「解釈が個人によって違うという曖昧さがあるから削除」ではなく、「こう書いてあるけど、それはこういう意味だよ」ときちんと伝えられる人間さえ居れば解決できるんじゃないかと思います。

 

落合博満氏が提唱された「オレ流」や、有名レストランチェーン「俺の」シリーズの俺の株式会社さんに倣い、鬼十則をパクって、私の部署に「俺十則」を作って部下に配布しています。

 

■坂津俺十則

◆仕事は自らやるべきで、強制されるものじゃない。強制されていると感じた時点で、どの部分がそうなのか上司に相談しなさい。
◆どうしても嫌な仕事は代わりに誰かがやってくれるよ。でも、何で嫌なのかその原因を明らかにしようね。
◆大きな仕事ほど周囲に助けを求めなさい。達成感は関わった人数との掛け算です。
◆高難易度を楽しもう。EasyModeだけじゃ味気ないでしょ。
◆退くのも勇気。どんな失敗したって死ぬわけじゃなし。君の失敗をフォローするために会社は存在する。
◆周りに敵が居るか?同僚、上司、部下、みんな絶対に敵じゃない。もしそんな気持ちが芽生えたら、何より最優先に解決しよう。

◆長期的に考えることを忘れないでね。今日の仕事が来週、来月、来年、5年後、10年後にちゃんと繋がっているかな?
◆自信はクリアした後につくものだから、まず目の前の山に挑戦してみよう。最初から自信なんて誰も持ってないよ。

◆多面的に考えるには、周りの人の意見を聞くのが一番。視野の狭さが最大の敵と心得よ。

◆お互いの理解が得られるまで議論するのは時間の無駄じゃない。理解が無いままに進む方がよっぽど無駄。

 

私は親から、小中高大学の先生から、友人から、社会に出て上司から、上記のように教えられた、と思っています。

そのお陰で仕事が楽しいし、困難にもチャレンジしようと思えるし、それを支えてくれる仲間にも、家族にも感謝できると思っています。

 

私に教えてくれた人々は、別にそういうルールや決まりがあったからそうしたのでは無いと思います。

きっとそういうものは、自然と代々伝わっていくんじゃないかと。

 

問題を解決する手段を、規制だけに求めない方法を考えられないかなぁ。

規制は「そうじゃない人」まで生きにくい環境にしてしまう。

私は「規制よりも奨励」でどうにかしたいと思っています。