鉛筆を拾った。
どこにでもある普通の、深緑色に塗られ、金色でHBと書いてある鉛筆だ。
謎の既視感がある。
と言っても、僕の場合はいつものことだ。
以前に経験したことがあるかのような感覚、既視感というものを感じやすい体質なのだろう。
ただこの鉛筆には少し普通ではない部分があった。
それは、六角形の六面それぞれにこんな文字が書かれているということだ。
1、爪
2、髪
5、右眉
百、左目
千、右腕
億、皮膚
最初は意味がわからなかったが、理解するのに充分な経験をすることになった。
まずこれを拾った直後に、僕はうっかり手を滑らせて鉛筆を落としてしまった。
別に要るものでもないのに、なぜか拾い直してしまう。
その時にアスファルトに右手の中指の爪が引っかかり、爪が剥がれてしまったのだ。
強烈な痛みで鉛筆を拾うことも忘れ、ハンカチで指を押さえながらその場を去った。
家に帰るより先に薬局で消毒薬や絆創膏を購入しようと考えたが、大した持ち合わせが無いことを思い出す。
コンビニのATMで現金を引き出した僕は眉をひそめた。
確かに1万円を引き出したハズなのに、1万円札が2枚出てきたのだ。残高照会をしてみても、1万円しか減っていない。
どうやら機械の誤作動のようだった。
そこで初めて僕はあの鉛筆のことを思い出し、すぐに落とした場所に戻った。
鉛筆は僕が落とした場所にそのままあった。
『1、爪』が上に向いていた。
この時にはすでに僕の中で確信めいた予感があったが、他の文字を見ると試しに転がして
みる勇気は無かった。
拾ったはいいが、なんだか怖くなったので、僕は鉛筆を捨てることにした。
転がさないように慎重に地面に置いた。
帰宅後、母親が大きな歓喜の声を上げて僕を迎えた。
「あ、あ、あんたの出してた、何とかキャンペーンの応募!当たったんだって!さっき連絡があったのよ!百万円だってー!偉い!持つべきものは懸賞好きの息子だわ!」
僕は驚き、そして喜ぶよりも青ざめた。
そして狂喜乱舞する母親を無視してすぐさま踵を返した。
あの鉛筆の場所に。
鉛筆はそのままの場所に僕が置いたままあった。
『百、左目』が上を向いていた。
僕は急いで鉛筆を拾うと、辺りを見回した。
ノラ猫が壁の上を歩いている。
新聞配達のバイクが走っている。
公園で子供が野球をしている。
緊張感のためか恐怖心の影響か、いつもの既視感は無い。
猫に引っかかれるのか、バイクが突っ込んでくるのか、野球のボールが飛んでくるのか。
僕は左目をかばうため、顔の左側に手を当てた。
その手に蜂がとまっているのに気が付かなかった。
こうして僕は百万円を得て、左目を失った。
刺された左目はとても痛いが、病院へは行かなかった。
どんな処置をしたところで僕の左目は絶対に回復しない確信があったからだ。
この鉛筆は、危険だ。
転がしても置いても、とにかく上を向いた面に書かれた文字が実現する。
確かに金は手に入るが、代償も深刻だ。
そして僕は、悩んだ末に、この鉛筆が引き起こす現象を阻止する方法を思いついた。
面を上に向けない、つまりどこかに刺して立てておけばいいのだ。
とりあえず自分の部屋のペン立てに鉛筆を突っ込んで僕は胸をなでおろした。
これでしばらくは大丈夫だ。
ペン立てが倒れたりしなければ。
しかしこの鉛筆をどうやって処分しようか。
ここでまた既視感、いや、悪い予感と言う方が正しいかもしれない感覚に襲われた。
何気なく鉛筆を見ると、尻の六角形の部分に文字が見えた。
『兆、未来』
芯の方を上に向けて立てれば良かったと思った。
しかし1兆円ものお金はどのようにして僕のものになるのだろうか。
僕の口座に出所不明の1兆円が加算されるのだろうか。
この悪魔のような鉛筆の効果を図らずも2度味わった僕だが、意外と冷静だった。
額面が大きくなるほどに、その代償を支払うまでの時間が長くなることに気付いていた。
1万円で爪を剥がされたときにはほんの数秒。
100万円で左目を失ったときには10分程度だろうか。
単純に計算すれば1万円あたり5~6秒程度のアディショナルタイムがあるのだと検討を付け、1兆円の場合を計算してみた。
19年?
こんな単純計算が適用されるのかどうか全く以って不明なのだが、僕は少しだけ胸を撫で下ろすことができた。
とにかく代償を支払うまでにまだ余裕がある可能性が高いのだ。
これまでの20年近い人生で培われたものは、振り返ってみるとそんなに大したものでは無かったように思われる。
しかしこれからはリミット付きの人生を歩むことになるのだ。
莫大な金も手に入る。
太く短く、良い人生を送れるかもしれない。
自分自身の前向きさに若干の驚きもあったが、今はこの性格に感謝しなくては。
さて、本当にそれだけの時間が僕に残されているのかは分からないが、とにかくこれからの時間は1秒だって無駄には出来ない。
まずやるべきことは1兆円の使い道について、僕の意思を書き残すことだ。
自分で使うことができない可能性も充分に考えられる。
と、ノートを取るために立ちあがった僕の視界がぐにゃり、と歪んだ。
絵の具が広がった水面をかき混ぜたように、視界に映る全てのものが渾然一体となって歪み、混じり、濁った色へ向かっていく。
次に僕の意識がはっきりと覚醒したのはほんの一瞬だった。
「元気な男の子ですよ!」
耳に入ってきたこの言葉を聞き、理解が追いつくまでに僕は再び僕の意識を失った。
赤ん坊を抱いた母親とは、本来こんな表情をするものだろうか?
彼女はいかにも苦痛そうな、悲しそうな顔を我が子に向けていた。
「これから、どうしようね?」
この言葉は腕の中の赤ん坊に向けられたものなのか、はたまた自分自身への問い掛けなのか。
と、そこへ男性が息を切らせて駆け込んでくる。
「お、お、おい!もう大丈夫だ!もう・・・大丈夫なんだ!」
大人の男とは思えないほどみっともなく泣きじゃくりながら、男性は女性に叫ぶ。
「金、カネが!会社を再建するのに充分な資金が!手に入った!」
「ほ、本当なの!?あなた!」
夫婦は抱き合い、泣き合い、喜び合うのだった。